楽しく読もう「万延元年のフットボール」
まず文体に相当な癖があるので、読みずらく、ストーリーが把握しづらいです。長々とした文章で何が起きているのかつかめないところがあります。イントロの長い抒情詩のような文章はすごいですが、読みずらいのでサッサと読み飛ばすのが良いでしょう。じっくり読んでいると時間ばかりかかってしまいます。また、当時の学生運動の経験や左派感覚がないとタイトルの意味がよく理解できないのではないでしょうか。とにかく、長々としてたくさんの形容詞で飾られた文体や、なかなか本質に迫らないストーリーにしろ、ちょっと捻じ曲がった作家です。読み応えは十二分にありますが、慣れないととても読みずらいと思います。いわゆる純文学で、楽しんで読めるエンターテイメント小説とは対極にある読み物だと思いまが、ストーリーを分析することで楽しく読むことも可能だと思います。ぜひ完読にトライしてみてください。
あらすじ
重度の精神障害の子供の父であり、親友を自殺で失った根所蜜三郎は、60年安保反対闘争に挫折する。そのとき、渡米していた弟の鷹四が帰国する。傷心の蜜三郎は弟の誘いに応じ、自己の拠り所と再生を求めて四国の山奥にある故郷へ帰る。
谷間の村はスーパー・マーケットの強力な影響下にあった。スーパー・マーケットの資本で村の青年たちは養鶏場を経営していたが、冬の寒さで鶏が全滅する。その事後策を相談されたことから鷹四は青年たちに信頼され始めた。鷹四は青年たちを訓練指導するためのフットボール・チーム(サッカー)を結成する。鷹四はチームに万延元年(1860年)の一揆の様子などを伝え、チームに暴力的なムードが高まっていく。
蜜三郎と鷹四の曽祖父は地元の村の庄屋であり、その弟は万延元年の一揆の指導者であった。蜜三郎・鷹四兄弟は、この百年前の兄弟の姿に自分たちを重ね合わせようとする。
正月前後に大雪が降り、谷間の村の通信や交通が途絶されると、チームを中心にして村全体によるスーパー・マーケットの略奪が起きる。この暴動は伝承の御霊信仰の念仏踊りに鼓舞された祝祭的なものであった。
その後鷹四は、村の娘を強姦殺人したことから青年たちの信奉を完全に失い、猟銃で頭を撃ち抜いて自殺する。自殺の直前、鷹四は蜜三郎に「本当の事をいおうか」と過去に自殺した知的障害のあった妹を言いくるめて近親相姦していたことを告白する。鷹四の破滅的な暴力の傾向は自己処罰の感情からきていた。
以下の歴史的事実と人間を対比した物語
1860 万延元年の一揆 曾祖父の兄弟
1960 昭和35年の安保闘争 蜜三郎と鷹四兄弟
※一揆と安保闘争をフットボール(戦い)で表現している。
題目について
題目についてAIに聞いてみました。
大江健三郎の小説「万延元年のフットボール」のフットボールとはサッカー、ラグビー、アメリカンフットボールのどれのことなんでしょうか?
大江健三郎の小説『万延元年のフットボール』における「フットボール」は、サッカー を指しています。
小説では、その描写からサッカーに近いスポーツであることが推測されます。ラグビーやアメリカンフットボールのような「激しい肉体接触」についての言及はなく、ボールを蹴る競技であることが示唆 されています。
日本における「フットボール」の意味
日本では「フットボール」という言葉は、基本的にサッカーを指すことが多いです。一方で、ラグビーは「ラグビー」、アメリカンフットボールは「アメフト」と区別されていました(特に大江健三郎が小説を執筆した1960年代にはこの傾向が強かった)。時代背景と大江健三郎の影響
『万延元年のフットボール』は1967年に発表された作品であり、日本では当時「フットボール」といえばサッカーを指すことが一般的 でした。大江健三郎自身も、西洋文学や文化に強い影響を受けており、サッカーが象徴的なモチーフとして使われた可能性が高いです。
したがって、『万延元年のフットボール』における「フットボール」は サッカー を意味すると考えられます。
では何故題名を「万延元年のサッカー」としなかったのでしょうか?
大江健三郎がタイトルを『万延元年のフットボール』とし、『万延元年のサッカー』とはしなかった理由には、いくつかの文学的・文化的な要素が関係していると考えられます。
①「フットボール」の方が象徴的な響きを持つ
「サッカー」という言葉よりも、「フットボール」の方が文学的・象徴的な響きを持ち、作品の主題と結びつきやすい からではないかと考えられます。
「フットボール」という言葉には、より広い文脈での象徴性(例えば、西洋文化の象徴、若者の情熱と敗北)が含まれる可能性があります。「サッカー」だと日常的で具体的すぎる
「サッカー」という言葉は、スポーツとしての印象が強く、タイトルとしてはあまり文学的な雰囲気を持たせにくい。一方、「フットボール」は、特に1960年代の日本ではまだ外来語的な響きを持ち、より抽象的なイメージを喚起しやすかった可能性があります。② 西洋文化との関連
大江健三郎は、西洋文学や文化の影響を強く受けた作家 です。特に実存主義やモダニズム文学 の要素を多く取り入れています。
「フットボール」はヨーロッパ文化を象徴する言葉としても機能しており、西洋文化との対比や、異文化の影響を強調する ために選ばれた可能性があります。
「サッカー」は日本的なカタカナ語として定着しつつあった一方で、「フットボール」はより「外来のもの」「異質なもの」としてのニュアンスを持っていたかもしれません。③ 文学的リズム・響きの問題
タイトルの響きも大事な要素です。
「万延元年のサッカー」 → 語感がやや軽く、俗っぽく聞こえる
「万延元年のフットボール」 → 重厚な響きを持ち、タイトルとしてのバランスが良い
「フットボール」という言葉には、作品の持つ 歴史的な重みや象徴性 を強調する効果があったのではないかと考えられます。④ 「万延元年」との対比
タイトルには「万延元年」(1860年)という江戸時代の元号が使われています。
これは作品内で 1960年代の日本(安保闘争などの政治的混乱の時代)と、幕末の動乱を重ね合わせる ためのものです。
「万延元年」という日本的な歴史的要素と、「フットボール」という西洋的な概念を組み合わせることで、異なる時代や文化の対比を強調している可能性があります。
「万延元年のサッカー」だと、単に日本の近代スポーツの歴史の話のように聞こえてしまう かもしれません。
登場人物
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根所蜜三郎
- 本作の語り手。友人の自殺と障害を持った自らの子の誕生を受けて深く絶望している。内向的な傾向をもつ。
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根所鷹四
- 蜜三郎の弟。安保闘争の後に転向。暴力におびえる一方で、暴力的な傾向をもつ。
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菜採子(なつこ)
- 蜜三郎の妻。障害を持った子の出産によりウイスキーに溺れるようになる。
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星男
- 10代後半の鷹四の信奉者。
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桃子
- 同上。
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S兄さん(根所S次)
- 蜜三郎、鷹四の兄。戦後すぐの混乱期に生じた村はずれの朝鮮人集落襲撃事件の手打ちのため犠牲の山羊として殺害される。
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ジン
- 村の大女。六年程前から謎の疾患により大食するようになり、肥満している。村の災いを引き受けていると言われている。
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隠遁者ギー(義一郎)
- 俗世間との接触を断ち森の中に棲む隠遁者。
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スーパー・マーケットの天皇(ペク・スン・ギ)
- 村を経済的に支配するスーパーマーケットチェーンの経営者。
章立
死者にみちびかれて
東京で暮らしていた蜜三郎 は、生まれてきた障害児のことや友人の死で悩んでいたが、兄の 根所鷹四の誘いによりにより四国の故郷に帰ることになる。
村の状況は不穏で、反体制的な若者たちが活動している。
鷹四(かつてフットボールに熱中していた)が、精神的に不安定な状態で迎える。
一族再会
兄・鷹四の過去が語られる。
彼は学生時代にフットボール(サッカー)に情熱を注いでいたが、挫折を経験。
父との関係、理想と現実の狭間で苦しむ姿が描かれる。
森の力
村では反政府的な動きを見せる若者たち が集まり、緊張感が高まっている。
蜜三郎は、村の歴史的背景と政治状況 に直面する。
1860年(万延元年)と1960年代(安保闘争の時代)のパラレルな状況が浮かび上がる。
見たり見えたりする一切有
は夢の夢にすぎませぬか(ポー、日夏耿之介訳)
父の死後、遺産相続や村の権力構造 が蜜三郎の前に立ちはだかる。
村の支配的な層と対立しそうな雰囲気が生まれる。
鷹四の精神的な不安定さがさらに強調される。
スーパー・マーケットの天皇
若者たちの革命思想 が具体的に語られる。
彼らは、1960年代の社会運動とリンクする形で、行動を起こそうとしている。
蜜三郎は彼らの情熱を理解しつつも、完全には共鳴できない自分に気づく。
百年後のフットボール
兄・鷹四が、精神的な混乱の中で暴力的な行動 をとる。
彼の過去と現在が交錯し、蜜三郎は兄の破滅的な性格 に直面する。
村の状況がさらに不穏になっていく。
念仏踊りの復興
万延元年(1860年)に起きた一揆や反乱 の話が掘り下げられる。
それと同時に、1960年代の若者の革命運動 が絡み合う。
歴史は繰り返すのか? という疑問が浮かび上がる。
本当のことを云おうか
(谷川俊太郎『鳥羽』)
鷹四との対話が行われる。
兄は「自分はもう戻れない」と語り、フットボールへの情熱と挫折の話をする。
蜜三郎は兄の姿に自分自身の未来の影 を見出す。
追放された者の自由
村の若者たちが、支配層に対して実際に行動を起こす。
革命的な行動が、1960年代の運動の縮図として描かれる。
蜜三郎はその渦中に巻き込まれていく。
想像力の暴動
革命的な動きに関わるべきか、距離を置くべきか悩む蜜三郎。
兄の精神崩壊とリンクする形で、彼自身のアイデンティティが揺らぐ。
フットボールが象徴するものとは何か? を考え始める。
蠅の力
蠅は我々の魂の活動を妨げ、我々の体を食ひ、かくして戦ひに打ち勝つ。(パスカル、由木康訳)
村での暴動が本格化 し、警察や権力者との衝突が発生。
鷹四が暴動に巻き込まれ、精神的にも肉体的にも限界に達する。
革命の理想と現実の落差が露わになる。
絶望のうちにあって死ぬ
諸君はいまでも、この言葉の意味を理解することができるであろうか。それは決してたんに死ぬことではない。それは生れでたことを後悔しつつ恥辱と憎悪と恐怖のうちに死ぬことである、というべきではなかろうか。(J=P・サルトル、松浪信三郎訳)
兄・鷹四が決定的な形で破滅する。
革命はうまくいかず、村の若者たちも四散していく。
蜜三郎は、自分自身の未来を考えながら、ある決断を下す。
再審
すべてが終わった後、蜜三郎は再び東京へ戻る ことを決意。
兄の人生、村の歴史、革命の挫折を振り返りながら、物語は幕を閉じる。
しかし、彼の心にはまだ解決されない何か が残っている。
まとめ
ストーリーは面白いし変わったキャラがたくさん出てくるので衝撃的だが、余計な形容詞や比喩が多くて何とも読みずらい。長々とした形容詞や例え話を除去した現代語訳版を出したいくらいだけれども、それでは純文学ではなくなってしまうよね。もっと百田尚樹みたいに物語がどんどん進展していって、もっとわかりやすいキャラが多くて楽しいエンターテインメントになればいいと思うのだけれど、そんなこと大江健三郎作品に言っても無理でしょうね。
でも全部を読めば存分に征服感が味わえる重厚な作品です。当時の学生運動や安保闘争の現役世代はもちろんのこと、彼らにとってはもはや古典文学となりつつある若者もあきらめずに完読することを期待しています。
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