昭和のキッズプレイ(サスペンス・コメディ)

登場人物

中屋敷淳(じゅん:クラス仲間)・・・文京小学6年生
住友圭吾(スミ:クラス仲間)・・・文京小学6年生
鯨岡久幸(クジラ:クラス仲間)・・・文京小学6年生
林久美子(くみちゃん:クラス仲間)・・・文京小学6年生
富田信夫(おとみ:クラス仲間貧乏)・・・文京小学6年生
佐橋功(さば:クラス仲間サラリーマンの家)・・・文京小学6年生
倉持千鶴子(クラス仲間サラリーマンの家)・・・文京小学6年生
熊田敦夫先生(美術の先生)社会科・・・文京小
木村由紀夫(ゆきお)主人公の父
木村美津江(みつ)主人公の母

袴田(敵)・・・豊島中学校2年生
大塚(敵)・・・豊島小学校6年生
花田(敵)・・・豊島小学校6年生
良ちゃん(近所の中学生不良)
杉田靖(杉ちゃん)果物屋店員
栗林優(ゆうちゃん:近所の大学生インテリ右派)
珠江さん(おばさん)
おけいちゃん(護国寺の浮浪者)

時代

1960年6月~夏休み~卒業
1960年6月15日は、安保闘争で死亡した東京大学の女子学生樺美智子さんの命日です。
1958年初来日公演ポールアンカ
1960年6月インスタントコーヒー発売
1959年(小学5年生)自宅に白黒テレビが来た日
1955年4月9日から1962年7月14日までTBS「日真名氏飛び出す」毎週土曜日 21:30 – 22:00

  1. 第一章          亡霊オカクジラ
    1. 第一節          山手線コンプレックス
    2. 第二節          亡霊
  2. 第二章          集中豪雨
    1. 第一節          待ち合わせ    2土
    2. 第二節          日照りと集中豪雨 1金
    3. 第三節          財宝発見     2土
    4. 第四節          商店街への帰途  2土
  3. 第三章          隠し砦を探せ
    1. 第一節          奴らと小競り合い 3日
    2. 第二節          隠し場所探し   3日
    3. 第三節          墓荒らし     3日
    4. 第四節          クジラ      挿話
    5. 第五節          墓荒しスイカ泥棒 3日
    6. 第六節          健ちゃん     挿話
    7. 第七節          売却依頼     4月
  4. 第四章          新しい仲間
    1. 第一節          クジラの金時計  5火
    2. 第二節          富田と野球    6水
    3. 第三節          ★万引きの朝
    4. 第四節          クジラ殴打秘密  8金
    5. 第五節          わたしも殴られる  9土
    6. 第六節          救いの女神    9土
  5. 第五章          忍び寄る影
    1. 第一節          富田の追求    9土
    2. 第二節          りんご籾柄と神社 10日
    3. 第三節          放置自動車事件  12火
    4. 第四節          仕返しの作戦   15金
    5. 第五節          夜店での反撃    16日
  6. 第六章          空蝉橋の乱闘
    1. 第一節          宝盗まれる    20水
    2. 第二節          橋での喧嘩    20水
    3. 第三節          事故発生     20水
    4. 第四節          それ逃げろ     20水
    5. 第五節          区民プール    20水
    6. 第六節          りんご籾殻で乾燥 20水
  7. 第七章          境内の一夜
    1. 第一節          境内ラジオ軽音楽 20水
    2. 第二節          久美ちゃんの差入 20水
    3. 第三節          おけいちゃん    20水
    4. 第四節          クジラの死    21木
    5. 第五節          卒業       21木
  8. 第八章          通夜の席
    1. 第一節          通夜の珠恵さんとの会話
    2. 第二節          旧友
    3. 第三節          終章

第一章          亡霊オカクジラ

第一節          山手線コンプレックス

電車に終点があると気がついたのはいつのことだっだろう。小学校も高学年になってからだったかも知れない。そして電車には行き先が明示されていることがあると気づいたのは、さらにそのもっと後になってからだった。山手線には終わりがないし行き先も表示されてない。もっとも終電や車庫に入る電車に「池袋」とか「新宿」とか目的地が示されていることがあるがめったに巡り会うことはない。ハナからどこ行きに乗るという感覚がないのだ。世界の電車はみなぐるぐる回りながら走っていると思っていた。遊園地の電車だってすべて回っている。始まりと終わりがあるそんな不便な電車なんて考えたくもなかった。生家からの最寄り駅だった大塚駅は山手線と貨物の線路のみで、乗り換えもなくホームが一つあるだけだ。急行もないし快速もない。方向でさえ間違えても、最大二八の駅を通過するのを頓着しないおおらかさを持ち合わせていれば、一周して必ず希望する駅に着く信頼の置ける電車だ。だから電車は来たら乗るものだと思っていた。わたしの鷹揚な性格は少年期に過ごしたこの都市環境の影響を存分に被っている。山手線の陸橋から大塚駅のホームを見下ろしながらそう考えた。

小学校時代の同級生の通夜に出席するため、わたしは単身赴任先の信州から上京した。長野から新幹線で東京まで約一時間半。山手線に乗り換え大塚駅で下車した。今朝は、長野市内から北アルプスの山頂がくっきりと見渡せる晴天で、しかも久しぶりの休日だった。すぐに思い立って戸隠のスキー場に出かけひと滑りしたあと、最近掘り当てたという麓の温泉につかった。人心地ついて蕎麦屋に入り昼食の大ざるに手をつけようとした。そのとき携帯電話に彼女の訃報が届いた。

通夜会場に向かう途中、駅のホームが眼下に見える陸橋を渡った。子供の頃、崖滑りで遊んだ橋から線路に至る土の斜面はコンクリート壁に整備されていた。そして広い空き地だった崖下はホテルと駐車場に変わっていた。当時わたしにとって、この橋は最高のお気に入りの場所であった。小学校からの帰り、わざわざ遠回りして寄り道した。茶色い山手線の電車や時折通る貨物列車や乗り降りする乗客や動き回る駅員や線路の側溝でザリガニ取りをする子供たちを見ているのが好きだった。ランドセルを背負ったまま何時間も眺めていた。一日中いても飽きなかった。ボーっとして考え事をしていても誰もとがめるやつもいない。親に叱られて家出をしようと決意したときも橋の上に来た。このまま電車に乗って東北地方にでも行ってしまおうと考えていた。しかし、山手線に乗っても一周回ったら元の駅に戻ってしまう。そう考えて家に引き返した。石が重ねて作られている欄干に一つ出来損ないのように黒く変色した硯のような小さな石壁があった。自分だけが知っている秘密だと思っていた。橋に行くたびに「また来たぞ!」と軽くその石に触るのが習慣になっていた。石の積んである数も数えて覚えていた。死んだ小動物は橋の下に埋葬した。橋梁の高さを知っていた。長さは知らなかったが測ってみようと思っていた。橋から最短でザリガニの住む側溝まで降りるルートも知っていた。駅員に見つからないように線路に進入する方法も熟知していた。子供たちはみな「イッセンバシ」と呼んでいたが本当は「空蝉橋」だと言うことを知っていた。橋の隅に生えている雑草の本数も記憶していた。ほかのことには頓着しなかったが橋については誰よりも知っていると思っていた。

橋で遊んでいた頃、人生の長さは果てしなかった。終焉が近づいてくる時期があることなどは考えも及ばなかった。そんなことは自分とは関係ないどこかの老人たちが抱える社会問題のようにも思えた。しかし、似たようなことは薄々感じることはあった。たとえば、小学校の夏休みも始まる前は果てしなかった。強い日射しの中、自由で勉強から逃れられる甘い生活が永遠に続くように思えた。休みの期間中は外遊びに悪戯、プールにアイスキャンデー、肝試しに線香花火、そして快い流行音楽に浸りきりだった。それがすべてと思っていた。終わりがあると気づくのは八月の最後の週になってからだ。それまでの怠惰を呪い宿題を整理し始め、終わりの不安に戦く。会えなかった友人を懐かしみ、先輩が頼もしく見え、宿題の面倒をみてくれた親戚のおじさんが尊敬の対象になった。誰でもいいから混沌の解決と終焉の不安を癒してくれる対象を訪ねたくなる。会いたくなる。

今、中年を過ぎて自分の生活も宿題の仕上げにかかる八月後半の週に近づいたことを感じる。そして仕上げる宿題は誰からも与えてくれていないことに気がついてさらに動揺する。バラバラに散らかっている宿題の材料を集めなければ。そして早く仕上げなければいけない。でもわたしの頭の中ではバラバラの材料がいつまでもぐるぐる回っており纏まりがなく止めどがない。そろそろ行き先のある電車に乗らなければ間に合わなくなる。もう残された時間は少ないのかも知れない。親しかった同級生の訃報はそれをいっそう現実的にさせた。

第二節          亡霊

日が暮れて少し冷え込んだが、分厚いコートの襟を立てれば十分に暖かかった。通夜の始まる時間にはまだ余裕があったのでタバコに火をつけ、もう一台電車が着くのを見てから会場に向かうことにした。橋の上からプラットホームの突端まで五〇メートルほどあるだろうか。蛍光灯の光を浴びて暗闇から浮き出ているホームの形は陸揚げされた細長い白鯨のようにも見えた。川底に敷かれたような線路上にカチャカチャと軽快な音を立て外回りの山手線が入ってきた。橋上から眺める電車は豆電球のようなライトで正面を照らし、空気を泡のように蹴散らせながらせっかちに走ってきて、期待どおり駅を素通りせずホームに停車した。ドアが開きパラパラと乗客が降りてくるのが見えた。出口の階段は中央付近にあるので最後尾の車両から降りる乗客は少ない。中年のサラリーマン、子供ずれの母親、お勤めに向かう女たち、学生服の一団。自分も通学や通勤にあんな姿で通っていた時期もあったのだろうか。少し遅れて学生たちの後ろから白いジャンパーを着た男が降りてきた。低い身の丈に大きめのジャンパーが不釣り合いだ。それにぶかぶかのジーンズを引きずっている。短い首には黒い毛糸のように見える長いマフラーをだらりと垂らし、落花生型の頭には巨人軍の野球帽をあみだにかぶっていた。少年のようにも見えるし中年のようにも見える。蛍光灯の明かりに生えて白く光るスタジアムジャンパーは尻の部分まで覆っていてやや滑稽だったが、スポットライトを浴びたように目立っていた。

男はそのまま出口方向に向かいかけ、突然足を止めた。一瞬、何かを考え込んでいる様子で頭を二三度左右に振り天を仰いだ。その後、車内に置き忘れた荷物でも探すようなそぶりで振り返った。そしてゆっくりと顔を上げた。男は少年ではなかった。ずいぶん年を重ねているように見える。自分と同じぐらいの年齢だろうか。こちらの方を見て何かを探している様子だった。しばらくすると遠方をまさぐる動作が消え、体ごとこちらに向き直った。

その瞬間、わたしは凍り付いた。わたしと男の視線が合致したように思えたのだ。それっきり男はまるで白い氷細工の人形のように身じろぎもしなかった。わたしは何が起こったのかわからなかった。こんなに離れているのにやはり男はわたしを見ている。遠いホームから橋上のわたしを認識して見つめている姿は明らかに異常だった。その男はわたしを見たまま静止している。全く動かない。

「いったいどうなってんだ」わたしは信じられない展開にとまどった。待ち合わせの他人を捜しているのか、と思い辺りを見回したが橋の上にいるのはわたしだけだった。視線をホームに戻しても相変わらず男はわたしを見据えていた。
しばらく男の顔を凝視していると、わたしの脳裏にかすかな記憶がよみがえってきた。

「そうだ、クジラ・・・鯨岡だ」男の顔には見覚えがあった。遠くて顔の輪郭しかつぶさに分からなかったが、野球帽にジャンパー、落花生の頭にしゃくり上げた顎、全体の雰囲気が旧友を連想させた。

「なんで、ここにクジラが?」

鯨岡は小学生時代の同級生で遊び仲間だった。

「そうか、あいつも通夜にきたのか?」

「いや、あり得ないことだ」

そう考えているうちに男の姿はホームから消えていた。それは一瞬のことだった。わたしは男を捜そうとして咄嗟に橋から駅までの坂道をかけ下った。しばらく走ると駅の南口の改札口に着いた。自動改札口に人気はなかった。男を待つうちに出口には北口もあることに気がついた。入場券を買い構内に入り反対の出口に向かったが、そこにも男の姿はなかった。期待は連れの気持ちが大きかった。半分あきらめながら階段を上りさっきまで男がいたであろうホームに向かった。池袋側の先端まではかなり距離があった。後から低いうなり音をたてて巣鴨からの内回り電車がわたしを追い抜いて到着した。相変わらずまばらな乗客だったが、わたしはその人の流れに逆らってホームの端まで進み、そこから橋を見上げた。橋上には細長い電柱が数本立っており、切れかかったような蛍光灯が鈍いしかりを放っていた。そしてわたしはその薄明かりの中にぼんやりした影を認めた瞬間、また息をのんだ。白いジャンパーに黒いマフラーの男が今までわたしが立っていた橋上におり、プラットホームのわたしをたじろぎもせず見つめていた。

「なんてこった。すれ違いなんて。メロドラマじゃあるまいし」自分でもつまらないと思いながら、新人のシナリオライターが書くような台詞で独りごとを言った。目を細めもう一度、影がさっきの男かどうかを確認した。間違いなかった。

「おーい!」わたしは橋に向かって叫んだ。電車を待っている数人の乗客がわたしの方を振り返って見る視線を感じた。

「おまえ、クジラか?」冷たく静まり返っている線路と砂利と暗闇に声が吸い込まれていく。

「そっちに行くから、待ってろよ!そこを動くなよ!」周囲を気にせずありったけの大声で呼びかけた。何の反応もなかったが、元いた場所に引き返すべく駆け足で出口に向かった。それにしてもずいぶん橋までは遠回りだ、反対側の降り口まで行って改札を出て長い坂を上る。それよりもホームから飛び降り線路を横切って駐車場を抜け、坂を登れば数分で戻れる。小学生時代のこの周辺で遊んだ記憶を思い出すと、改札まで戻るのがずいぶん面倒な気分になった。今更そんな大人げないこともできず、正規ルートで橋の上まで戻った。

坂道の往復はわたしの体力を消耗させ、息切れも激しかった。周囲を見渡したが、そこには白いジャンパーの男の姿はなかった。プラットホーム上にも男の影はない。通過する自動車のヘッドライトに照らされ瞬間明るくなる橋の反対側にも男の姿は見えなかった。暗く沈みきった橋の上にはわたししかいない。平静を取り戻すため、タバコを一本取りだし欄干に寄りかかろうと歩きかけると何かが足に絡まった。誰かに足を捕まれ引っ張られるような感覚だ。ぎっくとして足元を見ると長いマフラーが巻き付きわたしの歩行を妨げていた。黒い毛糸のマフラーだった。

「やっぱりあいつ、ここに居たんだ」わたしはまだ火を付けていないタバコを放り出した。マフラーを拾い上げその感触を確かめた。柔らかくて弾力があったが冷たかった。マフラーをまるめてコートのポケットに押し込みながらもう一度プラットホームを見下ろした。そこには男の姿も他の乗客の人影も見えなかった。

「先に通夜に向かった?」

「そんなことはあり得ない」

「あれは誰だったんだ。人違いだろうか?」

わたしは自問自答しながら、以前クジラとこの場所で待ち合わせしたことを思い出した。そして小学校六年生の夏に起きた一連の出来事についてゆっくりと記憶をたどった。

第二章          集中豪雨

第一節          待ち合わせ    2土

わたしは約束の時間よりはるかに遅れて待ち合わせの空蝉橋に向かっていた。クジラは、わたしを見つけると勢いよく駆けだして来た。

「じゅん、遅いじゃないか。ずっと待っていたのに!」攻めたてる口調で言った。

「そんな時間かい?」からかうつもりで、わざととぼけて見せた。

「いままで、何やってたんだよ、さんざん待たせて」弾ませた息を整えながら口をとがらせた。クジラの少し黄ばんだランニングシャツとぶかぶかの半ズボンは汗と泥で汚れていた。額と鼻には汗が光っていた。クジラは興奮しているときはいつも汗玉が野いちごの房のように鼻頭に整然と並ぶ。手で拭うでもなくハンカチで拭くでもなく吹き出したままとどまっていた。

「わるいなクジラ、掃除当番のあと職員室でまた小言の続きがあってさ」わたしはクジラのだんご鼻にまだきちんと並んでいる水滴と極端に突き出した顎の形を観察しながら言い訳をした。

「一時間は待ったからな、この借りは返してくれよな」怒りを少しトーンダウンさせたが恩着せがましい調子だ。

その日は土曜日で授業は午前中だけだった。前日まで続いた遅い梅雨の大雨による肌寒い空模様とは打って変わり猛暑の晴天になった。放課後はクジラとわたし、それに住友を加えたいつもの仲間三人で暑さしのぎも兼ね泳ぎに行くことになり、区民プール近くの空蝉橋で合流することにした。ところがわたしと住友はその日の授業を台無しにした張本人として、六年五組の担任に居残りの指令を受け職員室で絞られていた。長時間にわたる小言の拷問から解放されたときには学校中の生徒の影は皆無で、人気のない校庭を炎威の頂点に達した陽射しが執拗に照りつけていた。急いで家まで帰りランドセルを玄関に放り投げたあとプールの支度をして昼食も食べないまま飛び出した。

「住友はどうした?」

「オレと一緒に職員室で怒られていたから」

「スミもじゅんの道ずれか、つき合いがいいな」

「オレがスミにつき合ったんだよ」

区民プールで二時からの遊泳者入れ替えに並ぶ予定だったが、とうにその時間は過ぎていた。

「じゃあ、もう行こう。ついて来いよ!」落ち着き払っているわたしに、クジラが急かして言った。

「なにあせってるんだよ、もうすぐ来るから待ってようぜ」

「それどころじゃないんだよ」

「二時のプールはもう間に合わないよ、次の回まで待とうぜ」わたしは歩道の縁石に腰をかけながらのんびりとした口調で言った。

「プールじゃなくて、橋にいこう」

「いいよ、ここで待てば。スミは必ずここを通る」

わたしたちが押し問答をしていると、住友がアロハシャツに白いピチピチの短パンでバッグを肩に掛けチューインガムを噛みながらやってきた。

「おーい、お二人さん何もめてんの」

「スミ遅いぞ、テメーのんびりした顔して」クジラはわたしに責めたのと同じようなせりふを住友にもぶつけた。

「怒るなクジラ、じゅんだって遅れたんだ、いいだろ」住友はわたしより反省していなかった。「それに、オレ昼めし食ってないんだから」クジラの叱責を無視して続けた。

「二時間も待たせたくせに、でかい顔しやがって!」待ち時間は倍にふくれあがっていた。

「おまえなあ、少し遅れただけなのに、物事大げさにする悪い癖なおせよ」

「悪い癖って、何のことだよ?」

「こないだ、クジラんちの床下に大トカゲがいるって言っただろ。行ってみたら背中が銀色のちびトカゲがチョロチョロしていただけじゃないか」住友は右手の人差し指と親指で五センチぐらいの幅を作って見せた。

「おまえが見たのは子供のトカゲだよ、でかいのもうじゃうじゃいるさ。つまらないこと思い出すやつだ。何時間も待たせたくせに、話にならねえよ」クジラは大いに憤慨していたが、いつになく余裕があるようにも見えた。

「オレも腹ぺこだ。そこで菓子パンでも買って食おう」わたしが住友に言った。実際、相当に腹が減っていたことは確かだ。

「オレはメロンパンだな」住友が言った

「じゃあ、オレはコッペパンにバタピーナツにするか」

「ことの重大さをわかっちゃいないよ、おまえら」

「クジラ、おまえは何にする?お詫びにおごってやるから」わたしはクジラに少し同情して供応を申し出、近くにあるパン屋に促した。

「あーのどが渇いた。冷たい牛乳ものみたいな」住友がのどをかきむしりながら言った。

「スミ、メロンパンに牛乳か?すかしやがって、オレは何たって飲み物はラムネだな」

「おまえら、買い食いはいけないんだぞ」クジラはわたしの予想に反して食い物の話には乗ってこず、二人の会話に反対の立場で割り込んできた。

「買い食いじゃないよ。昼めしだよ」

「ともかく、そんなものいいから来いよ。おまえらたまげるぞ!」

「慌てるなって、夏の午後は長いんだから」住友は宥めるように言ってパン屋の方に歩き出した。

「めしを食って、一息ついて、四時の回から泳ごうぜ。ともかく暑くてたまんない、日陰に行こう」何を言っても聞かないクジラにわたしが提案した。そして周囲を見回したが、太陽はまだ真上に近く手頃な日陰は目に入らなかった。

「だから、プールどころじゃないって!イッセンバシがすごいんだ」クジラはわたしの半袖開襟シャツの裾をつかんで走り出そうとした。

「やめろよ、行くから、わかったから」わたしは袖をつかんだ手を振り払った。暑さと空腹のせいかクジラのしつこさに嫌気がさしてきた。どうせたいした話じゃないくせに、いつもの思わせぶりが始まったと思った。

「じゃあ、もったいぶらないで、最初からちゃんと話せよ」

「昨日の大雨でさ、大変なことになってるんだ」クジラが喋り始めると住友が口を挟んだ。「昨日の雨でプールがあふれて入場禁止だとか?」

「プールに水があふれて、どうしていけないんだよ」わたしは笑いながら言った。

「橋が大変なことになってるんだ。おまえらだって目を回すよ」

「また、誰かが線路に降りて駅員に捕まったのか?」住友が少し真剣な顔をして訝りながら聞いた。

「オレ、一三年生きて来たけど、こんなに驚いたの初めてだよ。ほんとに別の景色になっちゃったんだ」クジラは口を横に広げ、目をまぶしそうにしかめながら同じ意味の言葉を繰り返した。

「わかった、わかった、最初から説明してくれ」住友がクジラの肩に手を回し、事故にでもあって怯える被害者を警察官がなだめるように話しかけた。

「だから、きのうの雨でイッセンバシの崖が崩れて・・・」

クジラは野球帽のひさしを後ろにしてかぶっているので、汗まみれの額には午後の日差しが照りつけていた。鼻の汗玉は限界を超えて形を崩し、したたり落ちていた。

「大雨で橋が流された?」わたしが仰々しく言った。

「山手線の線路が川になったってか」住友がわざとらしく目を丸くした。

「まさか、ふざけるなよ」クジラがまた口をとがらせた。

「イッセンバシ、フォーリンダン、フォーリンダン、フォーリンダン」住友がいきなり声変わりの始まりかけたテナーで歌い出した。

「昨日の雨で山手線が止まってるっていう話はまだ聞かないよな、じゅん」住友がわたしに同意を促すように、そして思いっきり不思議そうな顔を作って振り向いた。

「ああ、ぜんぜん聞いてない」

「電車は動いているけど、崖が崩れて橋の袂から大塚駅のホームまでがつながっちゃってるんだよ」クジラが言った。

「じゃあ、山手線にただで乗れる?」住友が言った。わたしもまだクジラの話は信じられなかったが、もし崖が崩れたのだとしたらおもしろいと思った。

大塚駅周辺は、緩やかな丘の集まりだ。駅から巣鴨方面は線路が橋になり土手となって高架を走っている。逆に池袋方面へは丘陵の切通しの形で潜るように進み、いくつもの陸橋が架かっている。線路は平坦だが両側を包み込むように挟む道路はなだらかな上り坂になっていた。

駅から空蝉橋に行くには、南口の改札を出て坂を上がっていけばよい。線路は池袋に向かって左側の二本が貨物用、右側の二本が山手線用だった。空蝉橋の南側の袂から貨物の線路までは急な崖になっている。道路には簡単な柵があり、崖を下って線路に降りられないように防護されていた。しかし、子供たちは柵の一部を壊して通り抜けられるようにしていた。目的は崖の途中に穴を掘って基地を作って遊ぶことや線路に沿って続く側溝に生息するザリガニつりだった。

ときおり線路に侵入した子供たちが駅員に捕まえられ、学校で朝礼の時に厳重注意がされることがあった。わたしたちも何度か柵をくぐり抜け崖を降りてザリガニ捕りをしたが駅員に捕まるようなへまはしなかった。側溝でのザリガニつりだけで、線路に入ることがなければ駅員たちもそれほど気にしてはいないようだった。ザリガニの体は赤みを帯びた暗緑色で、体長一〇センチほどあった。捕まえようとすると後方にいざる性質がある。捕ってきて水槽で飼ったこともあったがあまり好きにはなれなかった。

空蝉橋は豊島区内にあるが文京区からも近い。ちょうど区境であり豊島小学校と文京小学校の校区の境目でもあった。橋の周辺には神社、公園、区民プールが集中してわたしたちの遊び場でもあった。橋梁そのものは遊び場であるはずもないが、橋の上でぼんやり山手線の行き交う様や、大塚駅ホームの乗客の乗り降りを眺めていたり、並行して走る貨物線路を通る列車の台数を数えたりした。貨物列車は滅多にお目にかからないので、走行に行き当たると何故かとても嬉しかった。ましてや登りと下りが同時に行き交うのに出会うのは一年に一度あるかないかである。そんなときは「きっといいことがある」と流れ星に願うようにお祈りをした。霊柩車が通ると反射的に親指を中に入れてグーをするのと同じように、貨物が通ると本能的に橋に走り寄って台数を数え出した。列車の接続台数はだいたい四〇から五〇だった。たいてい搬送している荷物は石炭、重油、砂利とか材木だった。たまに馬や豚が乗っているのを発見するとわたしたちははしゃいで大いに盛り上がったものだった。

「イッセンバシの崖が崩れて、土がむき出しになって。行ってみればわかる」クジラはだんだんムキになってきているように見えた。

「へー、すごいなそれ。でも昼めしが先だ。腹が減って死にそうだよ」わたしが言った。

「そうだ、めしだ、めしだ、昼めしだ」住友も賛成した。

「おい、聞けよ、それだけじゃないんだ」クジラは急に背中を丸めると小声になってあたりを気にした。「土砂の中にすごいもの見つけたんだ」クジラが続けた。

「なんか出てきたのか?」わたしが訊いた。

「去年、埋めたセキセイインコの屍か?」住友が古い話を持ち出した。

「人間の死体とかならびっくりしてやるよ」わたしは他人事のように言い、早く空腹を押さえることとプールに行くことばかりを考えていた。

「まさか」クジラは肯定しなかった。

「だって、このあいだ世田谷で学校の帰り小学生一年生が誘拐されたって言う事件があったじゃないか、オレあの子どこかで殺されて埋められていると思うんだよな、こわいなー」住友は両手で耳を押さえ天然パーマの髪を振り乱しながら怖がって見せた。坊ちゃん刈りのわたしも刈り上げのクジラにもまねできないポーズだった。

「ばかやろ、そんなことあるわけないだろ!」クジラが住友の奇想天外な発想に本気で怒りだした。

「クジラ怒るなって、いつものスミの悪い冗談なんだから」わたしはあきれて笑いながら言った。

「まあいいけど、度が過ぎるよ。スミが口を挟むと話が全然進まない」

「それで、何が出てきたんだって?」わたしは話を戻した。

「橋の上で崩れた土砂を見ていたら、ピカピカ光る物があったんだよ」やっと話に乗ってきそうな気配に安心してクジラは得意になって話し出した。

「わかった、このあいだ立川基地から盗まれた拳銃だ」住友がこの間の新聞記事に載っていた中学生による窃盗事件の話を持ち出していった。

「てめー、ふざけんなよ」

「はいはい、わかりました。鯨岡君、つづきをどうぞ」住友が慇懃に謝った。

「ブリキ缶だよ!」クジラはさらりと言い放った。

「なんだ、ごみか」住友はがっくりと肩を落とす仕草をみせた。

「でも、中に何が入っていたと思う」興味を引かせるような上目遣いでクジラが問いかけた。

「がらくた、廃棄物?」わたしが常識的に答えた。

「クソ、ゲロ?」住友は中村錦之介のような端正な顔をしているくせに相変わらず言葉は品がなかった。

「まだ全部開けてないから、よくわからないけど、いろいろおもしろい物がありそうなんだ」クジラが言い訳しているように言った。

「だから、たとえば何があったのさ?」わたしと住友が同時に言った。

「野球カードとか、メンコとか、ベーゴマとか他にもいろいろあるみたい」クジラは頭の中でひとつひとつ思い浮かべ確認するように宝物の中身の品物を挙げていった。

「あるみたいって、それ今どこにあるんだよ」

「橋の下の草むらにあるよ。誰か探しに来ると行けないから隠し直したけど」

それを聞いて住友はクジラより先に駆け出した。たぶんどこかの子供たちが隠した宝物に違いない。わたしもすぐ後に続く。それを見てクジラは慌てて後からついてきた。野球カードはその頃人気がありわたしも集めている最中だ。住友はベーゴマが得意で自宅の菓子箱にいっぱい集めて持っている。ベーゴマは背が低いほど強いがひもを巻くのに技術が必要で、わたしたちの間ではかなり高度な遊びだった。クジラはメンコを集めるのが好きで自宅に何百枚も持っていた。自分のメンコを地面にたたきつけ相手のメンコをひっくり返すだけの単純なゲームだ。写真や絵によっては人気があり、収集の対象にもなっていた。

退屈だった夏休み前の数週間がとたんに楽しくなりそうな予感がした。

第二節          日照りと集中豪雨 1金

その年はカラ梅雨とかで、夜になってほんの少しのお湿りはあったものの、まとまった雨はほとんど降らなかった。六月も下旬になると気弱な雨期も去り、雨雲を見る日は完全になくなった。真夏のような暑さが始まり「いままでの気象観測記録をぬりかえる猛暑」とか「一ヶ月早い真夏の訪れ」とかの見出しが新聞紙上に見るようになった。学校ではクラスの教師が節水についてうるさく言い始めていたし、このまま雨が降らないと近々断水があるという噂も流れていた。当時はエアコンもなく、涼をとるには扇風機に顔を近づけるか、日陰で休むか、デパートに行くぐらいのことしか考えられなかった。放課後、学校帰りのわたしたちは照りつける陽射しからどこにも避難する場はなく、憔悴するからだをもてあまし乾燥して疲れ切ったナメクジのようにのろのろと進んだ。アスファルトの溶けだした道路を足を引きずりながら、冗談を言う気力も失い帰宅する毎日が続いた。背中に汗を呼び込むランドセルは午後の太陽で焼き付き輝きを失っていた。

ところが七月に入ったとたん、これまでは西日本だけだった集中豪雨が関東地方に移ってきたのだ。雨の降り始めは大人たちも「ちょうどいいお湿りだ」などと言っていたが、いつまで経っても雨は降り止まなかった。恐れていた集中豪雨が週末の東京を襲った。木曜日の朝から金曜日の夜まで大雨は続いた。一部地域での浸水のため金曜日の授業は四時間目で急遽中止となった。わたしたちは喜びのあまり狂喜の雄叫びをあげた。学校は高台にあったが校舎の玄関が一時的に浸水した。校内の雨水のたまった場所を通過するため平均台を持ち出して、帰宅する生徒たちは順番にその上を体操の授業のときにするように両手を伸ばしバランスをとりながら渡った。観葉植物のゴムの木も鉢が水に浸かり、雨期のジャングルを探検している気分に浸れた。わたしは一回渡っただけでは物足りなく何度も平均台の上を往復した。たぶんこれは小学校生活でもっとも楽しい体験のひとつであることは確かだ。それにその夜は変電所への落雷ため長い時間の停電があり、ろうそく生活ではわたしの作ったトランジスタラジオが役に立った。雨は夜まで続きその影響で大塚駅の近くの陸橋で崖崩れが起こった。

次の土曜日は、前日の授業中止騒ぎが信じられないほどの度肝を抜く晴天でいつもの猛暑に戻ってしまった。

そのときわたしは六年生で小学校最後の夏休みを迎えようとしていた。

第三節          財宝発見     2土

わたしは今でも橋のたもとに立ったそのときの光景が忘れられない。いつもは緑に覆われた急斜面がチョコレート色に変わっていた。目の前に崖崩れの土砂が広がっていたのだ。それまで見たこともない広大な荒れ地だった。

山手線の線路にかかる空蝉橋はしっかりかかっていたが、川底のような橋の下を走る南側の崖が崩れ、橋から大塚駅のホームに向けてスキー場の中級コースような傾斜が緩やかで幅広い斜面ができていたのだ。災害の前、崖は三角定規の鋭角で急な一辺であったが流された後は、もう一辺の緩斜面に変わっていた。崩れた土砂は線路に向かって流れており、先端はかろうじて貨物線の線路の数メートル前でとまっていた。線路近くには進入防止用の簡単な柵が作ってあったが山手線と貨物列車の運行には障害を与えていないようだった。崩れたばかりの焦げ茶色の土はむき出しで、まだ水気を帯びていた。橋の上から見下ろすと幾筋もの水の流れた跡がくっきりと見えた。

「川の跡だ」住友が叫んだ。

「転んだら下まで一直線だな」わたしが言った。

「よく滑りそうだ、段ボールとかがあるとおもしろいな」クジラはすぐに新しい遊びの方法を考えた。

「おりるぞ!」クジラが珍しく威嚇するような鋭い号令をかけた。

わたしと住友はクジラに案内されるまま立入禁止の立て札を無視して崩れた崖の上に立った。上から見ると斜面は遠目よりきつく見えた。しかし崩れる以前は草木の根につかまらなければ降りられないほどのもっと急な崖だったので、それを考えると適度な斜面であった。最初にクジラが腰を落として折りはじめ、つづいてわたし、住友の順で進んだ。雨水が通過してできた、まだぬかるむ小道に足を取られながら、転ばないよう注意深く歩き、数分かかって土砂崩れの影響を受けていない橋の下の草むらまで降りた。橋の下には明らかに何か隠されているようなもっこりとした草の塊が認められた。「草をかぶせて、ここに隠しておいたんだ」クジラはそう言うと、覆い隠した草をはねのけた。そこには、小学生が一人で抱きかかえてやっと持てるほどの大きさのブリキ缶が横に寝かせてあった。

「開けて見ろよ」住友がいった。

「もっと橋の隅に移そう、崖の上から丸見えだ」わたしたちはブリキ缶を橋の根本の日陰まで移動して中身を確認することにした。

ふたは簡単に開いた。クジラのいったとおりブリキ缶の上部にはメンコ、ベーゴマ、野球カードが無造作に押し込まれていた。その下にはピースの缶にガラスのビー玉がぎっしりと詰められてあった。それにタバコとライターがビニール袋に包まれ出てきた。「しんせい」「ゴールデンバット」などの安物に混じって「キャメル」「ラッキーストライク」の外国タバコもあった。次にでてきた戦利品にわたしたちは歓声を上げた。新聞紙に何十も巻かれて間の横に納められていたのは切手帳、マンガ雑誌、ヌード雑誌だった。切手帳にはかなり高価な古い切手類が納められていた。皆で中を覗いてため息をついた。

「切手趣味週間の『ビードロを吹く娘』があるよ」

「百円で売れるな」

「もっと価値があるさ」

「おい、これみろよ」住友がそう言って「ヒュウ!」と口笛を吹いた。若い女性のヌード写真がたくさん載っている雑誌をぱらぱらめくっている。

「オレ、チンコ、おっ立ちゃうよ」住友がいった。クジラもわたしも少し顔を赤らめたが同調した。わたしはその頃その手の写真は興味があったが苦手だった。とても面倒なような気がしたし、他におもしろい遊びはたくさんあったからだ。でも住友はそうではないらしい。

「これオレがもらうからな」住友がヌード雑誌を持ち帰ることを勝手に宣言した。

「スケベなやつだ、かってに持っていけ」クジラが言った。

「スミ、それ家のどこに置くんだよ」わたしが住友の強引さにあきれながら訊ねた。

「安心しろ、オレのうちは広いんだってどこにでも隠せる、見終わったら、じゅんにも貸してやるから心配するなって」住友は自信たっぷりだった。

「そんなもん、いるもんか」わたしは貸してもらうのを強く否定した。

「おい、おまえら、ちょっと言っとくけど、これはオレが見つけたんだから。持ち出すのはオレの許可がいるからな」クジラが心配そうに言い出した。

「こんなにおまえ一人で持っていてもしょうがないじゃないか、まあ、みんなの共有財産ということで、オレたち仲間だろ」住友が聞いたこともない、猫なで声をひっくり返したような声で言った。

「ともかく、勝手な行動は許さない!」クジラが普段の行動には似つかわしくないキッパリとした言葉遣いで宣言したのでわたしは笑いそうになった。

「ああ、みんなで相談しながらやろうぜ、クジラちゃん」わたしはクジラが安心するように、そしてわたしたちが冷静さを取り戻すように言った。しかし、住友がいちばん底にあった油紙でつつまれた塊を取り出し、キャベツの葉をはぐようにして中を開けると、わたしたちはもう一度歓声を上げた。暫くして口の中にわき出して来たつばを二度三度と飲み込んだ。そこには万年筆、腕時計、ネックレスやブローチのような貴金属がメリヤスの白い布にくるまって丁寧にしまってあった。

「万年筆なんか、一〇本以上はあるぞ」クジラが叫んだ。

「おい、みせろよ」クジラから一本もらい、手に取ってみると重量感がある外国の製品だった。刻まれているマークから推測するとドイツのモンブランだと思った。以前からほしかった製品だった。腕時計も数個あった。本物かどうか計り知れないが、これも外国製のようで周りには金色の縁がまぶしく光っていた。

「オレ、これ一本もらうぞ」万年筆を取り上げてわたしが言った。

「オレは時計、三つもってこっと」クジラが言った。

「じゃ、オレもあと二本」わたしは万年筆をとって開襟シャツに押し込んだ。三本の万年筆は胸ポケットにずっしりと重かった。

「ちょっと、変だな」住友がいった。

「うん、子どもの収集品にしては、ちょっとな」わたしも変だと思った。

「高級すぎるな。盗品かも知れない」住友が続けた。

「窃盗団の隠した物?」クジラは少し怯えるようにひそひそ声で言った。

「十分に、ありうるな」わたしも同意した。

「開けーゴマ!」住友が急に大きい声を挙げたのでクジラがドングリ眼をさらに丸くして仰け反った。

「おい、つまらないこと言ってないで、この後どうするんだよ」わたしが言った。

「今日はプールどころじゃないな」クジラが冷静さを取り戻しながら言った。

「そんなのわかってるよ、ともかく見つかるとまずい」と住友。

「見つかるって、誰に?」

「四〇人の盗賊」真面目な顔で住友が言った。

「ばか、いまごろそんの奴らいるもんか」クジラが真に受けて間抜けな返事をした。

「盗賊がメンコとか集めるわけないよな」

「じゃあ、誰が隠したんだよ?」

「わからない、でも子供だと思うよ。この崖に埋めて隠そうなんて発想は子供しか浮かばない。大人じゃできない。だろ?」住友は自分の推理を披露した。

「じゃあなんで、時計とか万年筆があるの?」クジラが訊いた。

「まあいい、どこかこれを運ぼう、じゅんおまえの家近いから隠しておいてくれよ」住友がクジラの質問をかわして、わたしにとんでもない要請をした。

「冗談じゃない、いやだよ。親に見つかったらなんて答えるんだよ」わたしははっきりと断った。

「それより住友、おまえのうち広いんだろ。隠しておけよ」わたしはすぐ切り返した。

「でも、兄貴と一緒だし。やっぱりまずいな」住友も宝のおみやげには持て余しているようだった。わたしと住友はクジラに目を向けた。訊く前にクジラがしゃべり出した。

「こんなに重い物どうやって持っていくんだよ。目立ってしょうがない。きっと誰かに見つかるのが落ちだよ。それより、近くに埋めて隠そう」

結局その日は、橋の下に縦穴を掘ってブリキ缶を隠し、また後日安全な移動場所を考えることになった。穴を掘るために、わたしは家までシャベルを取りに帰り、三人がかりでずいぶん時間をかけてブリキ缶がすっぽり入る大きさの穴を掘った。

「たぶん水害はもう来ないと思うからだいじょぶだろう」

「ここは橋の下だし雨も防げる。絶対流されないよ」

わたしが万年筆と野球カード、住友がベーゴマをポケットに詰め込めるだけいっぱいとヌード雑誌、クジラは腕時計と切手帳を持って引き上げることにした。その日のプール遊びは延期になった。わたしと住友は昼食を取り損ねたことはすっかり忘れていた。

強かった陽射しはもう西に傾いて弱々しく照り返し、橋の下を抜けていく風が火照った体に気持ちよかった。

「じゃあまた明日ここに来よう」

「うん、宝を何処か安全な場所に移そう」

「おいクジラ、独り占めしようなんて考えるなよ」

「何言ってるんだ、オレが最初に見つけておまえたちに教えてやったんだろ。おまえたちこそ変なこと考えるなよ」クジラが反論した。

「これは三人だけの秘密だ。誰にも話すなよ」住友がたいそう偉そうに言った。

「当たり前だろ。それより、隠し場所だ」

「オレもいい場所考えておくよ」そう言ったが当てなどなかった。住友の半ズボンのポケットにはベーゴマがいっぱい詰まっており歩き方はがに股になっていた。

第四節          商店街への帰途  2土

二人と別れ、手に入れた万年筆と野球カードに満足しながら帰途についた。三本の万年筆の重みはものすごく、シャツの胸ポケットを大きく広げていた。見つからないようにズボンのポケットにしまい直した。

わたしの家は橋からは近かったが学校からは最も遠く校区の辺境の商店街にあった。商店街はかなり大きくて百店以上が集まっていた。シャーロックホームズがロンドン・ベーカー街の店舗を隅から隅まで覚えていたというのを聞いて、わたしは毎日、学校からの帰り道に歩いて通る店の順番を記憶にとどめる遊びをしていた。順路は布団屋から始まって菓子屋、八百屋、延々と続き花屋、靴屋、水道屋、肉屋、中華料理店、パン屋、貸本屋、乾物屋そして自分の家の洋品店で終わった。わたしの家は商店街の中でもかなりに繁盛していた店だった。父親はわたしが小学校に上がる前に亡くなり母親一人ですべてを切り盛りしていた。母親は洋品店の仕事に忙しくわたしにかまうことはほとんどなかった。だからたいていのことは自分始めて自分で解決した。そんなに難しい問題はなかったし、あっても仲間か先輩に相談すれば何とかなった。まあ、学校生活以外にの大半の時間を自分の自由に使えることに満足していた。母親の生活力にはいつも驚嘆しながら感謝し尊敬もしていた。いろいろなものが欠けてはいたが、十分に充ち足りた日常だった。

商店街には小学校同窓生の店もたくさんあった。高校生の先輩良ちゃんの家は乾物屋だった。おばさんが店をやっていて毎朝早くに河岸へ買い出しに出かけていく働き者だった。並びの國ちゃんは布団屋だ。商売上手という感じですべてに如才なかった。我が家の隣は中学生の健ちゃんの家で、この辺では珍しいサラリーマン家庭だった。健ちゃんは親父さんと二人暮らしで、わたしと同じ片親同士のせいかとても親しくしてもらい毎日のように出入りしていた。近くに嫁いでいる姉の珠恵さんが健ちゃんの母親代わりだった。留守がちの親父さんに代わってずっと弟の世話をしている。珠恵さんは忙しい母親にカマってもらえないわたし見かねて「もう一人の弟みたいなものから」と言い面倒もよく見てくれた。

よく通ったのは布団屋のとなりの貸本屋で、年のいった夫婦が運営していた。オヤジはいつも機嫌が悪く子供たちを客とは思わず馬鹿にしていた。おばさんは、メガネをかけた色っぽさのみじんもない乾燥芋みたいな人で何もかも事務的だった。よっぽど世の中おもしろくないのだろう。こちとらそんなことは関係ないので借りたい本を借りてさっさと引き上げてくるのが常だった。

パン屋のねえちゃんはたぶん分けありだと思った、一度結婚したはずだったがまた戻ってパン屋の手伝いをしている。パン屋は育った家なのだが居心地が悪そうだった。わたしには優しかったが、大きな涙目が落ちそうで「いらっしゃい」と言う声もか細く出戻りの悲哀をよく表していると子供心に感じた。

花屋ではどういう訳か卵を売っていた。お使いで店の卵を買いに行くとおばさんはいつも食事中だったのか口をもぐもぐさせて店に出てくる。そして花など買ったことがないのに「じゅんちゃん、今日は何の花にする」と子供にも愛想が良かった。

炭屋と氷屋を兼ねたおやじさんはいつも店前の道路で作業をしていて、学校帰りに声をかけるので嫌いだった。「テストどうだった?」とか「運動会どうだった?」と顔を見ればいろいろ聞いてくる。落語をやらせたらさぞ上手そうに思える志ん生ばりの江戸弁で「あすんでばかりいるなよ」が口癖だった。

八百屋は比較的あとから引っ越してきた、おやじは阪神タイガースの村山実にそっくりだった。あまり言葉を交わしたことはないが、話す関西弁にはものすごい違和感があった。ねじり鉢巻きでせっせと働くいていたが、噂によると賭事が好きで借金が相当あるという噂だった。うちの母親も金を貸したきりまだ返してもらえないと言っていた。

数件先のお菓子屋もあっという間に開店と思ったら、いつの間にかいなくなってしまった。女将さんはいかにも商売の素人というような中年の美しい女性だったが、二号さんだという噂だった。わたしにはとても親切でお菓子を買いに行くとたくさんおまけしてくれた。開店してしばらく後、本妻らしき人が来て店の前で大きな声で喧嘩をしていた。家に帰り母親に何の騒ぎか聞くとほっときなさいと何ともつれない返事であった。子供のわたしでも明らかに長く続かないとわかるお店であったが、すぐ店をたたみそのあとに鯛焼き屋が入った。鯛焼き屋には同じ年格好の子供がいたが、案の定、校区が違うのでほかの小学校に通っていた。三人兄弟がいてよく遊んだが、泣かしてばかりいるから遊ばないでくれと言われ長いつきあいにはならなかった。また、そこも数ヶ月で転宅し異なる店舗に変わった。

第三章          隠し砦を探せ

第一節          奴らと小競り合い 3日

日曜日の午後、わたしたちは宝物を移動するためにまた空蝉橋に集合した。空は熱風を降り注ぐ青天井に戻り、集中豪雨の痕跡はすっかり姿を消していた。水害を免れた雨後の雑草は緑の深さを増し、陽射しはますます強くなるばかりだった。

橋の崖崩れ現場も様子が変わっていた。崩れた土砂は深いチョコレート色からほこりっぽい薄茶色に乾きあがり、土砂が流れた崖下と貨物線路の間にあった数メートルの水たまりは半分ほどの大きさに縮まっていた。崖崩れの直後に見た荒涼とした風景は消え去り、柔らかそうな斜面と小さな水たまり、その近くを貨物列車がゆっくりとかすかな音を立てて進んで行く。優しく変化に富んだ広大な坂は、崖滑り、鬼ごっこ、戦争ごっこなどの格好の場所で見るからに遊び心を誘い気持ちを高ぶらせた。

子供たちがこれを見逃すわけはない。その日はたくさんの小学生が白泥の斜面をダンボールやベニヤ板を尻に弾いて崖滑りを楽しんでいた。斜面には雨水の流れた跡がまだ幾筋も残っており、その水路を滑り台にしたり、穴を掘ったりして秩序よく遊びに興じていた。そこは公園の遊具より何千倍も魅力がある場所に見えた。

復旧工事の工夫たちは立入禁止の立て札を崖のてっぺんに打ち込んだだけで引き上げて行った。大人たちは、崖崩れ現場で遊んでいる子供たちを見てみない振りをするか、眉をひそめるかして通り過ぎた。時たま「おい、ここは立入禁止だぞ、看板が見えないのか」といって追い出そうとしたが子供たちはかまわず遊んでいた。斜面は貨物線路近くまで延びていた。線路に近づくと駅員に注意されるのはわかっているので申し合わせたよう崖の斜面だけで遊んでいた。

わたしたち三人は橋下の宝の隠し場所に行くため、落ちているダンボールを拾い上げ崖を滑り降りようとした。そのとき、住友が器械体操を始めるように両手を横に広げわたしとクジラの進路を遮った。

「おい、様子がおかしいぞ」住友が体の大きい子供とその一群を指さした。

「あいつら何やってるんだ?」

「何か探しているようだな」

豊島小学校の六年生のグループだった。あたりかまわず遊んでいる小学生を捕まえては何かを問いただしているようにも見える。崖の土を竹竿でつついて何かを探しているやつもいた。遊ぶわけでもなく何かを物色しているようで異様に目立っている。全員で四人のグループだった。

体の大きいイガグリ頭はわたしの家の近くに住んでいる小川ミチヒロだった。小川は「おすもうさん」と呼ばれていて身体が大きく、そのままで相撲部屋の序二段という外見だった。おすもうさんは、わたしと同級で小学校にあがる前は小さく弱々しかった。喧嘩でもわたしの方が勝っていた。性格もおっとりして親しく遊んだが、校区の違う小学校に別れて進んでからはほとんど言葉を交わすこともなくなっていた。近くの柔道場に通い出してから、身体が大きくなってきてケンカも強くなり強面の雰囲気が漂ってきた。

もうひとり崖下に見え隠れしていたのは、長谷川哲夫で「てつ」と呼ばれている。父親が製紙会社の社長で金持ち、性格は小川と正反対で神経質のように見えた。角刈りの頭で鋭い目つきをしている。

崖の土を竹竿でつついていたのは、細面に消え入りそうな薄い眉毛の玉木だった。商店街のソバ屋の息子だ。幼少時に事故でソバの湯を全身にかぶり大火傷をしたという悲劇的な話を聞いたことがある。そのためか夏でも長袖のシャツを着て腕だけまくり上げていた。

長谷川に寄り添うように一見低学年に見える黒縁メガネのちびがいた。いろいろ命令されているようだった。たぶん長谷川の子分に違いない。細々と動き回っているが、彼らと嫌々行動を共にしているとしか考えられないほど精彩がない。まあこいつは、わたしたちにとってどうでもいいやつだ。

彼らは崖の上に佇んでいるわたしたちを見つけるとこちらに向かって来た。先頭は小川で、身体の大きい割には俊敏な動作で崖を一気に駆け上がり息を切らしながらわたしに話しかけた。

「しばらくだな、じゅん、何しに来た?」横柄で脅すような態度で訊ねた。

「いや、ちょっと」すこし気圧されてわたしは答えた。

「ここは、おまえらの縄張りじゃないよな」

「別にどこで遊ぼうがオレたちの勝手じゃないか、それともここは豊島区民専用で崖を降りるには入場料でも取るっていうのかい」わたしは弱気になるまいとして一気にまくし立てた。

「おまえら、ここえはよく来るのか?」

わたしはいやな予感がした。普段彼らとは町で行き交うこともあるが、それまではお互いに何の干渉もしなかった。だいぶ以前の先輩の時代には学校間で大きな喧嘩もあったと聞いていた。現在は沈静化しておりお互いにそれほどいがみ合う問題を抱えているとも思えなかった。それがこの突っ張り方は何なのだろうかと思った。

「よく来るのかって、聞いてんだよ」考え込んでいると小川が声を荒げて繰り返した。

「ぜんぜん、来ないよな」わたしはキッパリと否定して、念を押すように住友とクジラに目で合図した。

「今日が初めてだよ、崖崩れがあったって聞いたから様子を見に来たんだ」住友がさらりと穏やかな口調で言った。その言葉を遮ってクジラが割り込んできた。わたしは少し面食らった。

「いや、よく来るよ、どこで遊ぼうとかまわないだろ、この場所だってオレたちの方が早く見つけたのさ、おまえら何が言いたいんだよ」クジラはわたしの意図とは正反対のことを喋り始めた。わたしは会話をクジラにも振ったことに後悔していた。クジラの鈍感さをすっかり忘れていた自分を呪った。クジラの言葉は彼らに大いに興味を持たせた。

「じゃあ、昨日も来たってことか」

「ああ・・」クジラが言いかけたとき住友が割って入った。

「いいや、さっき来て、ここのいい場所オレたちが先にみつけたのさ」

「つまり、滑るのにいい場所ってことさ」わたしが付け加えた。

「それだけか?」小川は疑り深い目でわたしたち三人を順番に見ながら聞いた。

長谷川、それにソバ屋と黒縁メガネも崖の上に駆け上がってきてわたしたちの周りを取り囲んだ。

「おまえらこの辺で、何か拾わなかったか?」長谷川が訊いた。

「なにも」今度は自分だけで答えることにした。

「てめえら、ウソついたらぶっ殺すぞ」ソバ屋が持っていた竹竿の泥のついた先端をわたしの鼻の先に突きつけてすごんで見せた。泥は乾いた埃の臭いがした。

「だから、崖を滑りにきただけだっていったろ。しつこいなあ」わたしは相手の挑発に乗らないようにゆっくりと話し慎重に反応した。

「一年生と一緒にお滑り遊びかい?」長谷川が意地悪そうに聞いた。

「なにい!」クジラがいきり立って言い返そうとしたのを住友が直前で制止した。

「ああ、これから崖で滑って遊ぶのさ、何が悪い?」冷静に住友が言った。

「おまえたちにゃ、似合ってる」

「まあいいや、せいぜいケツの穴に石ころ詰めないように気を付けな」

「早く帰れよ、母ちゃんが迎えに来るぞ」黒縁メガネのちび以外は口々に悪態をつきながら彼らは崖の下に戻っていった。

第二節          隠し場所探し   3日

豊島小グループはずっと崖周辺を動き回っていた。奴らのせいでわたしたちは宝を隠した橋下には近づくことができなかった。

「どうするんだよ」住友がいらつきながら言った。

「今日はどうしようもない。あいつらがいなくなってから行動するより仕方がないじゃないか」わたしはその日に宝を持ち出すのは難しいと判断した。それに新しい隠し場所もまだ決まっていないのだ。

「オレ思うんだけど、あの品物あいつらのものじゃないかな」住友が言った。

「何か探しているような仕草だったし、遊んでるチビたちにしきりに大きな箱を見なかったかって聞いていたぞ」クジラが腕で額の汗を拭いながら言った。

「たぶん間違いないような気がする」わたしも同調した。

「奴ら、なんか必死だったよな」

「だったら早くブツを何処かほかの場所に移そうぜ」

「ブツか、やくざみたいだな」クジラが嬉しそうに言った。

「橋の下じゃ見つかるのは時間の問題だ」

「でも、穴はしっかり掘ったしカモフラージュも万全だ」クジラは自信ありげに言った。

「じゅん、あそこはどうだ?」住友がわたしに訊いた。

「あそこって?」

「ゴーグジの縁の下」ゴーグジとは護国寺のことで文京小学校の隣にあって、境内は通学路でもあった。

「あそこは小学生がたくさん通るし、隠し場所にしているやつは多いからやめた方がいいと思うよ」クジラがわたしの代わりに答えた。

わたしたちは護国寺の境内にある本堂の縁の下を物置代わりに利用していた。本堂の縁の下は鉄策で囲まれており進入できないようになっている。直径一センチ以上ある鉄棒はどうしようもなく頑丈そうに見えるが、上下にがたつきがあり引き上げてから横に力を掛けると簡単に抜けるものがいくつもあった。わたしは持ち帰ると面倒な工作の残骸や、野球のグローブ、古くなった靴、自分で作ったトランジスタラジオ、貴重じゃないメンコとかを隠しておいた。もちろん仲間はみんな知っていてそれぞれの持ち物を秩序よく配置していた。生徒の多くはこのことを知っていて適当に利用していた。だからそこは安全な場所でもなんでもなかった。それに大事なものを置いておくと「おけいちゃん」が持っていてしまうという噂があった。おけいちゃんとは子供たちがおそれる護国寺の墓場の住人である。めったに姿をあらわさないが、恐ろしい怪獣のような顔で、子供に悪戯したりするという話であった。

わたしは一度だけおけいちゃんを目撃したことがあった。墓場から下りてたのだろうか、学校近くの通学路の真ん中に寝転んでいた。下校時間だったため、大の字に寝ている大男の周りに生徒たちが遠巻きにしていた。酔っぱらっているようでもあり、死んでいるようでもあった。髪の毛はごわごわで、血のような赤いものがこびりついているように見えた。やはり死んでいるのかとそばの子供に聞いたとたん「ゴロッ」と寝返りを打った。取り囲んだ生徒の輪はいったん大きくなって静まりかえった。そしておけいちゃんが起き上がろうとした瞬間、ワーッと歓声を上げてみなで逃げ出した。わたしもその形相と猛獣が息を吹き返したような恐ろしさでおののき一目散に家まで逃げ帰った記憶がある。

隠し場所のもうひとつの候補は大塚駅の小さなデパートの屋上のメリーゴランド下だった。このデパートの屋上の小さな遊園地には頻繁に出入りしており、駅から近く便利だった。そこは雨も濡れないし安全な場所だった。わたしは護国寺の代わりにここを推薦した。しかし住友は、夕方六時すぎると入れないことと機械の整備で作業員が中に入り見つかったら元も子もないと言うことを理由に反対した。

「やっぱ、ゴーグジにしよう」住友が言った。

「だから、安全じゃないよ。みんな本堂の縁の下は知っているし」

「本堂じゃなくて、墓にするんだ」

「気持ち悪いこと言うなよ。穴を掘ったら骨が出てくるぞ」

「おけいちゃんに殺されるぞ。墓で遊んじゃいけないって先生も言ってたし」クジラもお墓には消極的だった。

「じゃあ、どこに隠すんだよ」

わたしたちのアイディアはそこでつきてしまた。

「ともかく、今日は橋には近づけそうもないよな」クジラが独り言のように呟いた。

「プールにでも行こう。今日も暑いったらないよ」みんなの意見が出尽くしたところでわたしが提案をした。

「海パンは」

「何も用意してないよ」

せっかくに日曜日だというのに何もやることがなく、わたしたちの最初の期待と勢いは空気の抜けた風船より小さくなった。

「今日は、帰るか」また、クジラがぼそぼそと呟いた。

「まだ早いよ。じゃあ、あいつらが居なくなるまで、ゴーグジで宝の隠し場所を探そう」沈黙を破って住友が勢いよく言った。

「お墓に行くのか?」クジラがめんどうくさそうに言った。誰も強く反対しなかったので、わたしたちは歩いて護国寺まで行くことにした。

第三節          墓荒らし     3日

「夏の墓場って何でこう暑いんだろう」クジラが、藪蚊に刺されたおでこをかきながら言った。確かに、周辺は木陰かなく強い陽射しが照りつけていた。冬場は霜柱を足で散らかして遊んだ場所が、何とも耐えられないほど今は暑いということが感情では理解できなかった。

「大きな墓の方に行こう、ここはしけたヤツばかりで木陰もない」住友がそういいながら墓の周りを囲ってある石の外柵に上った。

「オレに付いて来い」住友が言ったので、わたしも石の上に飛び上がりクジラが続いた。

石の外柵は高さが子供背ぐらいで両足を並べて立てるほどの幅があった。早足で歩き回り遊ぶにはちょうど良かった。住友が先頭で墓の周りをぐるぐると歩き回った。

「肝試しだ、ついてこられたら、宝物全部おまえたちにやるよ」二、三回周囲を巡ると住友は身軽そうに次の墓に飛び移った。

「あの宝物は、もともとオレが見つけたんだからな」クジラは宝の所有権についてこだわって言った。

墓の間が近い場合はなんともないが、離れていると外柵の間をジャンプする能力の差が現れてくる。いくつかの墓を通り過ぎていったとき、後ろで材木が倒れるような音がした。振り向くとクジラがよろけて板塔婆につかまり、その板きれと一緒に倒れそうになっている。塔婆は立てかけてあるだけなのでつかまっても体を支えるのには何の役にも立たない。クジラはそのまま塔婆をつかみながら外柵から落ちて墓石に体当たりするようにぶつかった。墓石はぐらりと揺れて「ゴゴッ!」という音とともに少し動いた。隙間から墓の中が少し見えたように感じた。転んだクジラは墓の横に倒れて座り、ぶつけた足をさすっていた。

「おい、クジラうしろにお骨が見えたぞ」と住友が言った。

それを聞いたとたんクジラが「ギャーッ!」という叫び声をあげてわたしたちの方に逃げてきた。

「冗談だって、クジラ落ち着けよ」わたしは宥めたが、クジラの唇が少し青くなっているように見えた。

住友は追い打ちをかけるように「縁起悪りー、クジラの体さわると手が腐るぞ」といって遠うざかった。わたしも住友と一緒にクジラから逃げた。墓に体当たりしたやつなんてウンコを踏んだやつよりましだけれど、言われない気持ち悪さがあった。クジラはべそをかきそうになりながらわたしたちを追いかけてきた。

半分からかいながら、半分本気でわたしと住友はクジラから逃げ回った。墓地中を走り回り最後に本当にクジラが泣きそうになったところでわたしは逃げるのをやめクジラと合流した。

突然向こうで「ギャー」という住友の叫び声がした。

住友はさっきクジラが転んだ墓の前で呆然として立ちつくしていた。

「おい、あれをみろよ」住友がさっきクジラがぶつかった墓の方を指している。それを見てわたしとクジラは仰天した。動いた墓石と板塔婆がきちんと元に戻っているのだ。わたしは死ぬほど怖くて全身に鳥肌が立った。

「これさっきの墓か?」クジラが訊いた。

「ああ、クジラが転んだ跡が残っている」住友がクジラが転んで端正な絨毯のような緑苔を踏みにじった跡を指して言った。

「おい、だれかいるのか?」住友が周囲に向かって叫んだ。

「おけいちゃんだ」わたしはつぶやいた。

「おけいちゃんが来たんだ!」そう叫び住友がにやにやしているのを見て事情を察した。住友が先回りして直したに違いない。そういうヤツなんだ。

「おい、気持ち悪いよ、こんなところ宝物を隠したってみんなおけいちゃんに持って行かれちゃうよ」クジラはそこを一刻も早く引き上げるよう主張し、事情がまだつかめずに周囲をきょろきょろ見回していた。わたしは住友と顔を見合わせてから声を出して笑った。クジラも同調して笑ったが、まだ事情は飲み込めていなかったようだ。その様子を見てわたしはもっとおかしくなり、またクジラのことが好きになった。

第四節          クジラ      挿話

四年生の時となりのクラスに変な歌を唄うやつがいるという評判が立った。住友がわたしにそいつの歌を聴きに行こうと誘った。となりのクラスに行ってみるとボーとした刈り上げ頭の生徒が教室の掃除をしていた。住友がそいつのそばに行って話しかけた。

「おい、例の歌やって見ろよ」といきなり言った。唐突な申し出のためか、状況の理解のためかしばらくの沈黙があったが、表情を変えず歌い出した。

「♪コンミスタ タリマン タリリ バナーナ」

なんとも妙な歌で、メロディがあるのやらないのやら。バナナをバナーナというのが不思議だった。浜村美智子とかハリーベラホンテという歌手が歌っていたらしいのだが小学生が歌っているのを聞いたのはそのときがはじめてだった。その小学生が鯨岡祐二でみんなからクジラと呼ばれていた。

それに彼は授業で使う縦笛を使って何でも吹けるというのだ。わたしたちがリクエストをすると流行の歌謡曲をどんどん立て続けに吹いていった。

ためしに、「ぼくはないちっち」「ハリマオ」「東京だよおっかさん」は立て板に水で気持ちが酔うほどの演奏であった。わたしの最初のリクエスト「スターダスト」は出来なかったが、代わりに頼んだ「ダイアナ」は下水道に汚れた油を流すぐらいの雰囲気だが、最後まで演奏することができた。上手ではないけれどもすべて何とかこなしてしまう。音楽のセンスとは無縁そうなこの少年が器用に笛を吹くのをわたしたちは感心して聞き入っていた。

何曲も吹き終わったときわたしたちが拍手をすると、満足そうに歯茎をむき出しにしながら口だけで笑らった。縦笛を袋にしまい、また掃除の仕事に戻りながら「今日はサービスだ」といって猫とカラスの声真似をしてくれたがこれも見事な出来映えだった。

掃除当番に戻る後ろ姿を見ると、落花生型で刈り上げ頭の後ろ髪の一部が十円玉ぐらいの大きさでシミのように薄い金髪になっているのに気がついた。芸達者なやつっていろいろ変わってるんだなと思った。外国の歌も縦笛もかなり変だったが、それに加えて一度見ると忘れられない薄茶色の瞳と、歯茎丸出しの締まらない笑顔が印象的と言うより幻想的だった。

その後、五年生になるときの学級変えでクジラと同じクラスになった。わたしと同じぐらいの背の高さだったため、毎週、朝礼のとき借り上げ頭の金色いしみを眺めることになった。

クジラは、誰にでもすかれる陽気なやつだが、押し出しのなさが弱点だった。つかんだ物何にでも鼻に近づけ、においをかぐ癖が品の悪さを現している。しゃくれた顎と張り出したおでこは一見理知的に見えるが、会話をすればすぐに憎めないぼんくらだということがわかる。笑っていいのかどうかわからない冗談を言う。話の中にでてくる数字は大袈裟でほとんど一〇倍以上になっている。

クジラの家は裕福には見えなかった。家の中には一度も入ったことがないし家族の話は彼の口から聞いたこともない。ずいぶん年上に見える兄貴と顔がそっくりな弟がいることだけは知っていた。明らかに兄貴からのお下がりであろう縮みあがった開襟シャツとつぎあてのある半ズボンが定番の制服だった。クジラの弟もこれを着せられるのだろうか。一人っ子のわたしには男三人兄弟など想像もつかない世界だった。オヤジさんとは会ったことがない。クジラが小学校低学年の頃に交通事故で死んだと聞いたこともある。

クジラは左利きだった。クラス替えがあり最初に彼の左利きがとてもかっこよく見えた。ところが、勉強のできが悪く担任の教師に指名されて黒板の前に立ち、立ち往生してチョークを左手に持ったまま書こうとして手を上げて止め、上げてはまた手を下ろす。その動作が何とも不憫というか、かっこわるいといおうか、たどたどしく字を書く左手の手際の悪さを見て、いっぺんにイメージが変わってしまった。助け船を出そうとそわそわしていたら、「木村君、代わってやってみなさい」と言われた。もじもじしていると担任は「早く出てきて!」と急かした。黒板の前に出ていく直前までは俊敏に問題を解いてやろうと思い、軽い足取りで出かけていった。前に出てクジラを見ると真っ赤な顔をして下を向いていた。うなだれて全身で屈辱に耐えている様子だった。それを見てわたしの気持ちは急変した。黒板に正解を書いてはいけないと確信したのだ。仲間意識が彼を一人にしておけないと思ったのか、友達を失いたくないと思ったのか今でも分からない。ともかく、クジラと同じように手を挙げたり下げたり、最後にでたらめの数字を書いて、担任の方を振り向いた。担任は、たいそう怒った。クジラよりわたしの方に憎しみを向けているように感じた。わたしのわざとらしい行動に敵意を感じていたのだろうか。二人とも廊下に立たされた。放課後残るように言われた。

「木村君、テストではできている問題が何故できないの?」

「忘れたからです」

「テストはカンニングだったんじゃないでしょうね」

自慢じゃないが、そんなこと小学校に入学以来一度もしていない。相当プライドが傷つけられたが我慢するより仕方がなかった。

「あんたたち誰のために勉強しているの?」担任がクジラに向かって聞いた。

しばらくの沈黙の後「先生のためです」とクジラが答えた。わたしは「ああ言ってしまった」と思った。担任はあきれた顔を隠さず、異邦人を見つめるような視線を投げかけてから、泣きそうな顔になった。

「世の中には貧しくて勉強したくてもできない子供もいるのよ」

そんなヤツ教科書にでてくる子供以外いるわけないと思った。

「あなた達は勉強する権利があるの」

「はあ」

「もういいわ、あんたたち帰りなさい」

クジラは相変わらず神妙な顔をしていたが、担任の困惑が理解できないようだった。

「自分のためです」が正解なのにと思ったが、よく考察してみるとクジラの答えもいいと考え直した。みな自分のためになんて思っているやついないかも知れない。何故かなんて考える必要もない。皆やらされているんだ。何が権利だ、何が義務だ。みんないろいろ苦労してるんだ。いちいちそんなこと考えてられるかってんだ。先生のために勉強するやつがいたっていいじゃないか。「生徒の素直な気持ちに感謝しろ」と思った。

第五節          墓荒しスイカ泥棒 3日

わたしたちは墓場に適当な隠し場所を見つけられず遊び場を隣の雑司ヶ谷公園に移した。確かに公園の方が墓場よりは気が楽だった。

「ここの石塀なら安心だろ、クジラ」そう言うと、住友は石段に上った。住友はどうしても塀渡りの続きがやりたいようだった。そして石段から始まる公園の周囲を巡るに塀に上り軽快に渡り始めた。墓場と同じようにわたしがその後に続き、クジラの順でついてきた。公園の石塀は頑丈そうだが片足の幅しかなくやや高いのでスリルのある行軍となった。公園にある遊具の木道と同じ遊びだが、わたしたちは子供用に作った遊具には何でも不満だった。お膳の上に整然と出された和菓子には見向きもしないが、食べかけの駄菓子には手を出すというひねくれた性格だった。何かそこに大人の策略を感じてしまう。策略と言ってもそれは大人が我々を安全に楽しませてくれようとする善意の意志なのだが、それが気にくわないと言うところだろうか。

進んでいくうち住友が美空ひばりの歌謡曲を歌いながら灰色の塀上を歩いた。

♪長アーガイ タビージノーウォ

コーオカイ 終エェエテ・・

船ウネが港に 泊まーるヨオルウ

両手でバランスを取りながら塀の上を歩き住友が気持ちよさそうに歌った。

♪ズンジャカ ジャッチャ

クジラがお囃子を入れた。住友の調子はあがる一方で声も大きくなりサビに入った。

♪海の苦労を グラスの酒に

みんな忘れる マドロス酒ア場ーア

と住友が最高に気張って唄ったところで、一番後ろで何かが地面にたたきつけられたような鈍い音がした。またしてもクジラだった。クジラが足を滑らし、塀から落ちたのだ。落ちたとき石塀に擦りすりむいたらしく膝とすねに血がにじんでおり泣きそうな顔になっている。

クジラの目から涙がこぼれ落ちそうになったとき住友が曲を変えた。

♪泣くうなあ、小鳩よ、こころの妻よ

誰の曲か忘れたが、泣きそうになるといつもこの歌でからかわれる。これは相当悔しいので、ほとんどのヤツが泣きやむことが多い。塀の上からクジラを見下ろしていると餌をほしがって口をパクパクしている傷ついた池辺の鯉のように見えた。

クジラは涙顔をむりやり不満顔に変えて「つまらねえ歌やめろよ」と言った。

「落ちたやつには、おしおきが必要だあ」住友が歌舞伎調で言った。

住友は塀から飛び降り、水のみ場に行って口にたっぷりと水を含んで戻ってきた。乾いた泥に水を吐き出すと濡れた泥を手に救ってクジラの左頬にばつ印を描いた。クジラは頬に塗られた泥を手にとって鼻に近づけ臭いをかいだ後「クセーッ、よくもオレの顔に泥を塗ったなあ!」と住友をまねて歌舞伎調にのたまう、気のいいやつというかアホなやつだ。

塀に戻り二周目に入った。今度はわたしがエルビス・プレスリーを歌った。

♪ユエンナキバラ ハンドドック

クラッキノド タイム

♪ユエンナキバラ ハンドドック

クラッキノド タイム

♪ウエー ネバ コラ ラビ

ユエノー フレノ マー

まるでみんなは反応を示さなかった。

「何だよそのお経は、調子狂うなあ」しばらくしてからクジラが迷惑そうに言った。歌謡曲と対極を行く最先端のロックンロールなのにガキどもはわかっちゃいないと思った。先輩の健ちゃんから日本ではプレスリーよりポールアンカの方が人気があると聞いたことを思い出してすぐ曲を切り替えた。

♪ア ツクリル トリップ

トウ マイホームタウン

♪アイ オンリ ストップ

ジャスタ ルカランド

これも反応を示さないが、行軍の曲としてはハウンドドックよりましだった。

「もっと難しいところを通れよ」わたしが歌うのを無視してクジラが言った。どの曲でも同じに聞こえると言うことだろうか。

「その桜の木に飛び移るぞ」住友が勢いよく叫んだ。

塀の上からその桜の木の枝までは、一メートルほどあるが、飛びつくにはちょうどいい枝振りで何の問題もなかった。飛びついたら逆上がりの要領で枝に上がり幹の方に進むか、懸垂のまま進むかしかなかった。枝の下は、ぬかるみでちょうどよいクッションにはなるが罰を受けなくても落ちれば泥だらけになることは間違いない。

最初に住友が跳んだ。次にわたしが無事に枝に飛びつき幹までたどり着いた。最後にクジラが跳んだとき、ジャンプの距離が足りなくて桜の木の先方に飛びついたため、枝は重さに耐えられず大きく撓った。「バキッ」という音がしたが枝はひびが入っただけで折れてはなかった。クジラは懸命の形相で折れかかった枝をわたり幹までたどり着いた。

「簡単すぎて、あくびがでらあ」桜のわたりになんとか成功した余裕かクジラは大きな口を利いた。

次に塀から屋根に上がった。建物は平屋で公園の管理棟だった。屋根は平坦なコンクリートのため気楽な行進が続いた。管理棟が終わると隣は一般の民家のようだった。

「もう、公園に戻ろう」単純な遊びに少し飽きが来てわたしが言った。

「いや、次だ」そういって住友は民家の屋根に飛び移った。

「人が住んでいるぜ」わたしは少しまずいかなと思ったが住友に続いた。

「ああ、だから慎重にいけよ」

トタン屋根なので音がうるさい。足音が靴の裏にへばりついているようだった。もう歌は唄わずに静寂を保ち、這いつくばって前進した。わたしがトタン屋根の継ぎ目に半ズボンの裾をひかっけてすべった。クジラがそれを見て立ち上がった瞬間、バリバリッと言う大音響が響いた。クジラの足首が腐ったトタン屋根を完全に踏み抜いている。

「どうせ、ぼろ屋だかまわねえよ」住友が言った。

そのとき戸が開く音がして、家の中から人が出て来た。

「誰かでてくるぞ」たぶん家の住人だろう。

「伏せろ」物音を立てずに身体を硬直させた。自分でつばを飲み込む音が聞こえた。

「クジラ、猫の鳴き声だ」住友がクジラにしわがれ声で命令した。

「ニャーゴ!」クジラが絶妙の鳴き声をまねした。

「誰かいるのか?」大人の怒鳴る声がした。

わたしたちは屋根の上にへばりついて身を隠した。クジラは足首をトタン屋根につっこんだまま伏せているので体が痛そうだ。苦痛を耐えているような顔が妙にひずんで見えた。人が家の中に戻るのを確認してわたしたちは安堵した。

「隣の屋根に飛び移れ」わたしたちは音を立てずに注意深く移動した。

今度はトタン屋根ではなく立派な瓦屋根だった。瓦を割るのにはさすがに気を引けてわたしたちはゆっくり前進した。その先にはもう平屋の家がなくわたしたちの遊びは終わるかに見えた。

「飛び降りるぞ」屋根からは三メートルほどあり勇気が試される高さだ。住友が最初に飛んだ。下は芝生のようだったがかなり怖い。わたしは「神様!」と心の中で叫びながら目をつぶり、歯を食いしばって一気に飛び降りた。着地すると体全体がジーンとなり全身総鳥肌になった。上を見るとクジラが考え込んでいた。

「さっき挫いたところが痛くて無理だよ」いつのまにか擦り傷が捻挫に変わっていた。

先に降りたわたしたちは気軽で、怖かったくせに「簡単だよ」「はやくしろよ」「梯子を持ってきてやろうか?」とどなっている。

この状況になると、何ともはや続いて飛ぶよりさらに勇気がいる。かわいそうだとは思いながらはやし立てた。目を真っ赤にして泣きそうになりながらクジラが飛んだ。涙が風でどばされたのか、目のまわりは水滴がついていた。

「えらい」住友が言った。クジラの足は擦り傷だらけで血塗れになっていた。

周囲を見渡してみるとそこは大きな家の裏庭だった。昔風の作りの家で、庭は石蹴り遊びができるくらいの広さがあった。飛び降りてきた塀の下は丁寧に整備された庭で花壇とその中に手作りと思われる金魚の池が見えていた。花壇には飛び降りた足跡が大量についており踏み倒した草花もあった。池は湯船ぐらいの大きさで、セメントで作ってありまだ新しいらしく白く光っていた。

母屋の方を見ると無防備に開け放った縁側が見えた。縁側の脇にはきれいに畳んである洗濯物の山があった。そのそばに水をためた大きなバケツがありその中に氷とスイカが浮かんでいるのが見えた。

「あ、うまそー」住友が言った。

「オレ今年まだスイカ食ってないんだよ」わたしは中身の赤い果肉を想像した。

「オレも」クジラがそう言って縁側に近づくと家の奥から人が来る気配がした。クジラは驚いて退いた。出てきたのは、幼稚園生と思われる子供だった。クジラはそれを見て急にニッコリして「こんにちはぼく、なにしているの?おにいちゃんとあそぼ」と言いながら子供に近づいた。子供は警戒心で躊躇していたが、すぐにクジラの人なつっこさに引き込まれてその子は「うん」と言って頷いた。

「ぼくいくつ」

「満四さい」

「おるすばん?お母さんは?」

「おでかけ」

「一人でお留守番偉いねー」気持ち悪い裏声でクジラが言った。

「チャンスだよ」クジラはそう言ってわたしたちに振り返った。

「スイカ盗もうってのか、まずいよ」

「ちがうよ、お呼ばれになるんだよ」

「オレに任せろ」クジラが言った。

「スイカもう冷えたかな?食べてみようか」

「だめだよ、ママが帰ってから」強い調子で子供が言った。

「しっかりしたガキだ」

「やっぱり引き上げようぜ、ここは人の家の庭だよ。家宅侵入で引っ張られる」わたしはクジラに言ったが聞いていないようだった。

「そうだね、ママが来てからだね」クジラが続けた。

「うん」

クジラは縁側に子供の横に座るとなつくようにいろいろ話しかけた。そして頃合いをみてから「スイカもう冷えたかな、見てみようね」そう言いながらバケツを近づけた。中に砕いた氷と一緒にくっきりした緑と黒の模様がついたスイカが浮いていた。クジラはバケツの水に手を入れると貴重品でも扱うように丁寧に取り出した。水が滴って廊下にぽつりぽつりと音を立てて落ちた。

「重いね、このスイカ」クジラはゆっくりと持ち上げた。

「坊や、冷えてるからさわってごらん」と言いながら自分の顔より大きいスイカを重そうに持って子供の前に差し出した。

「冷えてる、冷えてる」子供はスイカの表面を両手で触りながら安心しきって言った。

「ぼく、持てるかな?」そう言いながらクジラは子供にスイカを手渡した。子供は何とか持ちこたえて抱え「冷たい、冷たい」と繰り返した。

「じゃあ、もとに戻そうね」そういって子供からスイカを受け取る瞬間、クジラはわざと手を引いた。スイカはするりと子供の手からこぼれて、ころころと転がり縁側に上がるための大きな踏み石の上に落ちた。ざっくりと割れて、真っ赤な果肉がむき出しになった。赤い汁が踏み石を伝って地面に敷いてある白い砂に吸い込まれていった。

「あっ!落としちゃったの?」クジラがわざとらしく叫んだ。

「あーあ、割れちゃったよ」わたしがそう言うと、子供はびっくりして大きくした。目に涙がたまりそうになっていた。

「もう、食べるしかないな」それまで一言も発しなかった住友が平然と言った。

真っ赤に熟れた身の中に点在する黒や茶色の種子が、果実の確実な甘さを約束していてくれるかのようだ。もう、そこにいる誰もがそれを口に入れることに反対することなんて考えられなかった。

「坊や、早く食べないとせっかく冷えたのが」そう言いながら割れて散らばったスイカの破片を集め、さらに細かく割って食べやすいようにして子供に与えた。自分たちの分も割って夢中でかぶりついた。子供は何のことかわからずわたしたちの行動を見守っていたが、かぶりつくわたしたち姿を見て慌てて口をスイカに持っていった。丸いスイカを割って食べるのは久しぶりだった。家で買うものはいつも半分か四半分に切ったものばかりだった。大きいと思ったスイカだったが、瞬く間にその場ですべてを平らあげてしまった。庭には黒と茶色の種が点々と舞っていた。

「いやー、最高だね」クジラはランニングシャツの裾を引っ張り上げハンカチ代わりに口を拭った。

「ぼうや、ごちそうさん」

「ありがと、またくるね」

幼児は何が起こったのか理解できずにきょとんとしたまま、まだスイカを食べている。

「まずいよ、散らかしっぱなしは」

「それより、花壇の足跡何とかしろよ」

「どうしようもないよ。ほっとけ」

「足形調べられたら、身元が割れるぞ」

「誰が調べるんだよ」

「警察だよ」

「バカかおまえは、スイカ食ったぐらいで」

「そうさ、ご馳走してもらっただけだし、子供の遊びだし」

「クジラも悪いやつだな」住友が鼻で笑いながら言った。

わたしも悪くは思ったので「あとかたづけだけは、きちんとしようぜ」そう言って、バケツの水を花壇にまきスイカの食べかすを丁寧にバケツにしまった。そしてスイカの種は縁の下に蹴り入れた。

庭の垣根から路地に出て公園に向かったが、みな押し黙って歩いていた。後味の良い遊びではなかった。それに所期の目的のことを思えば何の成果も得られていなかった。

結局その日曜日は、みんなで遊び惚けているうちに暮れてしまった。

「今日は疲れたよ」わたしはため息混じりにぽつりと言った。

「金もないし、大した遊びもできないな」クジラも意気消沈していた。

「来月、小遣いもらったら後楽園遊園地でも行こうぜ」わたしが気勢を上げようと少し大声で喋ったが反応はなかった。わたしたちの家庭は金持ちじゃなかったが、人並みに遊ぶ小遣いくらいはもらえる境遇だった。

「今度、豪華にやってみないか」しばらくの沈黙を破って住友が言った。

「キャバレーでも行くのかい?」クジラがおちょくった。

「酒も飲めないくせにばかいうな。おまえら、もっと豪華に遊びたいと思ったことないのか?」

「どんなこと?」

「だから、後楽園でジェットコースター乗り放題とか、アイスクリーム食べ放題とか、マンガ買い放題とか」

「住友は、放題が好きだな」わたしは笑いながら言った。

「そんな金、ないよな」

クジラが言うと、その言葉を待っていたように「宝物をさばくんだよ」と住友が言った。

「さばくって、どういうこと?」

「売るってことさ」

「あんなもの売れるのかなあ」

「どこへ売るんだよ」わたしとクジラが立て続けに訊いた。

「だから質屋とか、古道具屋とか」

「相当儲かるな」

「でもあの品物、盗品だったとしたらつかまるぞ」

「それより小学生がどうやってさばくんだよ、ベーゴマなんて買ってくれるとこないさ」

「馬鹿だな、ベーゴマは売れやしないよ」

「だから時計と万年筆は足がつくって」わたしはこの話には慎重だった。

「切手を売るんだよ」住友がそう言って、頭を使えというように自分のこめかみを何度も人差し指で突っついた。

「どこで?」クジラが興味を示した。

「じゅん、健ちゃんが切手を売って現金化したって話していたよな」住友がわたしに向き直って言った。

「ああ、そういえば」わたしは健ちゃんから池袋に切手を買ってくれる店があると聞いて、住友に話したことを思い出した。住友の記憶力の良さにはあきれてしまう。

健ちゃんはわたしたちの二年上の先輩で小学校時代はよく一緒に遊んでくれた。中学二年になっていたが、ときどきわたしたちの要求に応じてくれて遠くの駄菓子屋や池袋の映画館につれていってくれた。

「健ちゃんに聞いてみようか」わたしは住友の言葉を受けて続けた。

「クジラ、おまえ切手帳もってこいよ」住友がクジラに命令するように言った。

「わかった。でもあれはオレの切手帳だから、何をさばくかはオレが決める」クジラは条件付きで返事をした。

「おまえの切手帳じゃない。みんなの切手帳だ、いいな」住友は念を押したがクジラは回答を省略した。

「じゃあ、明日帰ったら、健ちゃんの家に行こう」わたしがその場を締めくくった。切手を売るのなら怪しまれないと思った。臨時の小遣いを手にすることは楽しみでもあり、品物をさばくのはちょっとした冒険でもあった。

わたしたちは月曜日の放課後に健ちゃんのところに相談に行くことにしてその日は解散した。

第六節          健ちゃん     挿話

健ちゃんの中学校での評判はよろしくなかった。勉強もできないし札付きの不良だという。背が高く肩幅が広い。少し長い髪をリーゼントにまとめている。たしかにサングラスでもかければいっぱしの不良という風貌だ。わたしも中学生になったら坊ちゃん刈りはやめて健ちゃんのように長い髪にしたいと思っていた。同級生の話だと、勉強は算数だけが極端に苦手なだけであとは問題ないらしい。わたしから見ても健ちゃんは音楽にはやたら詳しいし、本もたくさん読んでいた。小学生の頃から英語だって詳しかった。ラジオだって一人で作ってしまう。何故こんなに頭のいい人が学校で勉強ができないと言われているのか全く解せなかった。両親は早くに離婚して父親に引き取られ二人暮らしだった。わたしもつきあいは長いが健ちゃんの母親の記憶はない。父親が出張の時は、結婚して近くに住む姉さんの珠恵さんが食事を作りに来てくれた。珠恵さんが来られないときは一人で夕食をとることがあるようだった。

その年の正月、子供たちだけで寄せ鍋をやったことがある。健ちゃんの父親は正月三ケ日いただけ出張に出かけた。一人の食事はつまらないと言うので、近所の子供も入れていろいろな食材を買い集め鍋料理を作った。なんでもひとりでやることが多いから自然に料理上手になったそうだ。

なべ料理は簡単だといっていた。暖房用も兼ねている火鉢を熱源に,材料を入れたなべをかけ煮ながら食べる。子供たちだけで火を扱うのは父親からは厳禁されていたが、健ちゃんは手馴れたものでガスより火鉢のほうが安全だといっていた。土製の浅いなべの中で味をつけながら野菜や肉を煮る。中には白身の魚,イカ,エビ,練製品のかまぼこ,はんぺん,野菜はネギ,ダイコン,ハクサイ,シュンギク,たけのこ、キノコ類,ほかに焼豆腐や白滝を入れた。

寄せ鍋の中身はみんなでバラバラに買い物に行って、好きなものを入れる。闇鍋は、絶対おいしくなくなるからやめようと言うことになった。以前やったとき、チョコレートやバナナを入れたやつがいて結局最後は食べられなくなったそうだ。わたしの担当は乾物屋で、糸こんにゃくを買いに行ったが売り切れだった。乾物屋のおばさんの推薦で春雨にした。みなで買ってきた食材を健ちゃんが手際よく料理して感動するほどおいしい鍋を作ってくれた。

健ちゃんの部屋にはわたしが欲しがっていたギター、ステレオアンプ、レコードの束、テニスラケット、グローブにミット、何でもあるのがうらやましかった。親父さんが忙しくて、相手をしてくれないときに欲しい物をねだれば何でも買ってくれるそうだ。「おみやげで騙されてたまるか」と言うがわたしにとっては理想の父親とも思えた。

親父さんから昼飯代をもらうこともよくあるらしく、そのお金でそば屋につれて行ってもらった。壁に貼ってあるメニューの中で一番安いのを頼もうとしてそのまま読み上げ「もりかけ!」と言って健ちゃんとお店の人に笑われた。

「もりとかけは別物だよ、じゅん、遠慮するな」そういって、天ざるをとってくれた。ともかくわたしの知らないことを山ほど知ってる。

少なからずわたしは健ちゃんの影響を受けていた。音楽が好きになったのも、野球を始めたのも、ラジオ作りを始めたのも健ちゃんの影響だった。自転車で秋葉原に連れて行ってもらいラジオの部品を初めて買ったのも健ちゃんと一緒だった。鉱石ラジオやトランジスタラジオを半田ごてを使って組み立る方法も教わった。でも、何と言っても最も健ちゃんを尊敬するのは西洋通つまりアメリカかぶれであることだった。ポール・アンカよりエルビス・プレスリーの方が偉いというのを知っていた。ロサンゼルスをLAという。当時のテレビドラマ「パパは何でも知っている」のアメリカでの原題が「ファーザー・ノウズ・ベスト」だとも言っていた。こんなネタどこで仕入れてくるのだろう。

ギターが弾ける。始めたばかりのようだったけれどわたしには上手に聞こえた。チューニングのやり方とドレミの押さえ方を教えてもらった。コードをいくつか教えてもらったがわたしの指の長さではガットギターのネックは太すぎた。軽音楽のレコードをたくさん持っている。レコードプレイヤーは自分で改造した糸ドライブとかでわたしには触らせてくれなかった。レコードは特に大切にしていて、蟹の足のように長い指を器用に使って決して表面に手の油をつけることはなかった。少しでも汚れるとフエルトで包んだカステラのような埃取りで表面を丹念に拭く動作を繰り返していた。ハイファイセットのスピーカーがものすごく大きい。アンプの内部の赤いヒーターの灯った真空管は、いかにも暑くヒートアップして最高級の音を醸し出しているように思えた。レコードは多種で流行のポピュラー音楽とクラシックそれにアメリカの黒人の音楽というジャズもあった。わたしもいつか自分のレコードが買えたらと思いながらラジオのヒットパレードを聞いていた。

運動会ではリレーの選手でいつも花形だった。騎馬戦の大将で、仮装大会では一番人気だった。それに喧嘩が強い。正月休みの時、公園で揚げていた凧と隣の豊島小学校の校庭で揚げている凧が空中で糸がからまってトラブルになった。相手の学校に押し掛けて喧嘩になり、何人もの相手を一人でこてんぱんにしてやっつけたという伝説は有名だった。それ以来、文京小学校と豊島小学校の連中とはそりが合わなくなっていたが、健ちゃんの活躍はあげればいとまがない。

第七節          売却依頼     4月

月曜日の放課後、わたしたちは健ちゃんの家を訊ねた。

「よう、おそろいだな」健ちゃんが、慈愛に満ちた笑いを伴って玄関から出てきた。商店街では珍しいサラリーマンの一戸建てだ。

「まあ、あがれや、今日は誰もいないし遠慮するな」関西出身ではないと思うのだが、うれしいときにはへんな大阪弁になる。健ちゃんを信用しないわけではなかったが、宝物の件は伝えないで、切手の処分だけを相談することにした。それがわたしたちの事前の打ち合わせだった。

応接間を通り抜け部屋に入れてもらうと、シングルベットと大きなステレオのスピーカーそれにギターが目に入った。

「すいません。おじゃまします」住友とクジラが言った。健ちゃんは、わたしとは近所づきあいだが、彼らは初対面に近いので敬語を使っていた。

「すごいですね、ギター二本もあんですか?」住友がウエスタンギターとガットギターを見て訊いた。

「ああ、本当は電気ギターがほしいんだけど、高くて買えないんだよ」

「そんなものあるんですか」住友が両手を広げながら驚いて見せた。

「そんなこといいから切手帳を出せよ。おまえら切手売りたいんだろ」

「はい!」クジラが背筋を伸ばして答え、緊張しているのか神妙な顔で三冊の切手帳を差し出した。

健ちゃんは一冊づつ丁寧に中身を点検した。ずいぶん長く時間がかかったような気がした。自分の引き出しからピンセットを取り出し、引き抜いて後ろを見たりしていた。切手の相場表の本を出してきて現在価格を確認している。そしてやっと言葉を発した。

「これ誰の切手帳?」

不意に訊かれたので、わたしたちはちょっと返事に詰まった。わたしと住友はクジラの方を見た。

「ぼくのです」クジラが言った。

「よく集めたな」健ちゃんは切手帳から目をはなさずに低い声で言った。

「ええ、発売の時には必ず郵便局に並んで」

「古いのはどうしたの?」

「えーと、友達と交換したりして」クジラはもじもじしながらわたしの方に助けを求めるような視線をきれぎれに送ってきた。しかしどうしようもない、下手な手助けをするよりここはクジラに任せるしかないと思った。

「それは嘘だな」

「はあ?」クジラは素っ頓狂な声を上げた。

「とてもこんな珍品を小学生に買えるはずがない、親父さんが持っていた物とかならわかるけど」健ちゃんがやっと切手帳から目を離してクジラに向かって言った。とうとうわたしは我慢できなくなって「そうそう、クジラの親父、切手収集が趣味で古いのいっぱい持てるんだよな」そう言ってからわたしは取り返しのつかないことを口走ってしまったことに気がついた。クジラの親父さんは死んだって聞いている。でもたぶん健ちゃんはそんなこと知らないだろう。後はクジラがわたしの話を受けてうまく合わせてくれることを祈るだけだった。

クジラは眉間にしわを寄せ、下を向いて何も答えなかった。

「じゅん、これ売るのはもったいないよ、自分で持っていたらどうなんだ。すごく価値のある切手がいっぱいあるぞ」健ちゃんはわたしに向かっていった。

「どうするんだ、クジラ、おまえ金が必要なんだろ、今月の給食代が払えないって言ってたじゃないか」わたしたちの嘘はどんどん積み重ねられていった。

「もう、切手集めるのやめたんです、だから売っちゃってもかまわないんです」わたしの発言を受けて、クジラがうつむきながら目に涙をためそうにして言った。

「そう」健ちゃんは深く息をしてから言った。

「健ちゃん、こないだ池袋の切手屋で売ったって言ってたじゃないか、その場所教えてよオレたち自分で行くから」わたしが言った。

健ちゃんはしばらく考えた後

「その切手帳オレのなんだ」といった。

「えっ?」わたしたちは顔を見合わせて絶句した。

「オレのなんだよ。どこで見つけたんだ?」

誰も答えなかった。

「この間、盗まれたんだ」健ちゃんは少し大きな声で畳みかけるように言った。

「そんな、バカな」

「バカとは何だよ。ちゃんと答えろよ」

「健ちゃんのだって証拠はあるの?」わたしは思い切って反論した。

「そのはオレが何年もかかって集めた切手帳だ、見ればすぐわかる」そう言って鋭い視線をわたしに向けた。

「だから、クジラが集めて・・」みな押し黙っているので、わたしが言い訳をしようとすると間髪を入れず「どこで手に入れたんだ!」健ちゃんが切手帳を机にたたきつけながら怒鳴った。わたしたちはその迫力に押されて全員座ったままキョウツケの姿勢になっていた。

もう、本当のことを言わなくてはだめだとわたしは覚悟を決めた。そして切手帳はメンコやベーゴマと一緒に空蝉橋で拾ったことを健ちゃんに話した。ただ、時計と万年筆と貴金属も同時に見つけたことは黙っていた。それを聞いて健ちゃんはそれまでの気取った表情を消し柔和な顔に戻した。わたしたちもそれを見て安堵した。

「アハハ、そうゆうことね、わかった、わかった」うれしそうな笑みを浮かべていた。

「・・・」

「おまえらいいヤツだよな、かんしん、かんしん」

「ありがとございます」クジラが意味不明なお礼を言った。

「いやあ、わるい、いまの話はウソだ」健ちゃんはあっけらかんと言った。

「はあ?」また、クジラが素っ頓狂な声を出した。

「だから、これはオレの切手帳じゃないから安心しろ」

「それって、どうゆうことですか?」

「ちょっと、からかってみただけだって」健ちゃんは笑いながら言った。

「え?なんだって、そんな」住友が最初に反応した。

「だって、おまえらがこんな高価な切手を持っているわけないじゃないか」

「えー、人が悪いな」わたしとクジラは素直に和解したが住友の態度は少し違っていた。

住友はとくに仲間以外にはシニカルでカッコをつける癖がある。騙されたと思うとこだわりができて気持ちを切り替えられないのだろう。わたしも同じ気持ちだったけれど健ちゃんなら許せるという感じがした。それにわたしたちだって切手帳を拾ったことを隠していたのだからおあいこだ。ブスッとしている住友に助け船を出した。

「おまえ、レコード貸してもらったら、健ちゃんいいのいっぱい持ってるよ」

「いいよ」

「気に入ったのもっていけよ」健ちゃんは押入からアメリカンポップスのドーナツ版をどっさり持ってきて住山の前にさしだした。

目に留まったのは怖い顔のおばさんがこちらに向かって笑っているジャケットで、曲名とか歌手名は英語で意味不明だったが、下に大きくMGMと書いてあるのだけがわかった。

「これなあに」

「コニー・フランシスの最新版だよ、聞くか」

「うん」

出だしは人を馬鹿にしたようなやる気のない女性コーラスが「イヤン・イヤン・イアー・イヤン・イアー」と歌いそれに単純なスネアドラムが続いた。ステレオアンプの迫力は相当なものでベースの重低音が腹に響いた。歌が始まるとどんどん音程があがっていっていつまで登っても登り終わらない螺旋階段ような上り調子の曲だった。

♪ When you left me all along

at the record hop

told me you were going out

for a soda pop.

途中のギターの間奏はとてもしゃれていた。こんなギターの音は聞いたことがなかった。演奏方法もピックが流れるようで新鮮だった。

「このレコードで使ってる楽器、何なの?」

「電気ギターだよ」

「電気?」

「アンプにつないでつかうのさ、いい音だろ」健ちゃんは音楽に合わせ手足を揺すりながら髪に櫛を入れた。

「弾いてみたいな」

「オレも買いたいけど、高いよ」

「曲名は」

「カラーに口紅」

「口紅の色がどうかしたの?」

「あはは、オレもわかんないけど、口紅が男の襟についててヤキモチやいたって話じゃないか」健ちゃんは嬉しそうに乾いた笑いを発した。

「でも借りたら福井さんが聞けなくなりますよ」住友が気を使っていった。

「いいよ、オレはテープレコーダーがあるから」

「テープ?」

「うん、テレコ、よく聴く曲は並べて録音してあるんだ」

その当時まだ珍しかったテープレコーダがあった。五インチのオープンリール型だ。

「へえ、録音できるの、何でも?」

「何でも。音楽でも、話でも、鳥の鳴き声でも」健ちゃんは得意になっていろいろ並べ立てた。

「おならもできるの?」わたしが訊いた。

「お前、変なこと言うな。もちろんできるさ」

「クジラ、おならしろよ」住友が少し機嫌を直しながら言った。

「すぐでるもんか」

「録音開始」

「プー」クジラが無理してやった。器用なヤツだ。

「録音できてるかな?」健ちゃんがそういってテープを止め、巻き戻し操作をして再生してみると「プー」と言う音が忠実に再現されたあと、みんながどっと笑う声が収録されていた。

健ちゃんの家で遊んでいるうち夕方になってしまった。わたしたちは、切手帳を持って池袋の買い取り業者の店に行くことにした。その店は池袋の東口繁華街のハズレにあった。

健ちゃんの家から水窪通り商店街を通り抜けていった。水窪通り商店街は地元の坂下商店街とは異なりよそよそしく見える。これは客観的な見方ではなく、わたしの地元から離れるためにそんな感じがしたのだろう。たまに買い物に行ったりすると異国に入り込んだような気もした。そこは豊島区でもあり、国境の南、異国であった。

駄菓子屋には地元では見かけない不思議な品物が置いてあった。たとえば、さん孔テープの使い古したもの、何の役にも立たないが魅力的だった。輪ゴムが茶色ではなくて緑色だった。黄粉にまぶした餅のような菓子で、中に豆が入っているともう一つもらえるのが嬉しかった。透明に近く透き通ったロウセキも魅力的だった。近くの駄菓子屋より新鮮でしゃれていると感じた。味付けのおふに杏を乗せた菓子には飽き飽きしていた。それに驚異的で何より美味だったのは、赤紫に輝く甘酸っぱいスモモだった。メンコやベーゴマの種類も新しいものがあった。変わったものを持っているとみんなから一時の尊敬を得られる。だからそこでは外国から来た買い付け商人のような気分になり、あるだけの小遣いを使ってしまうことがよくあった。

水窪通りを抜けて不忍通りに出ると大都会という感じだ。池袋駅まで行く大通りの途中に、電飾で照らされたタイルの小さな池を入り口にあつらえたダンスホールがあった。時間によっては噴水が吹き出していることもある。ときどき派手な衣装で着飾った男女が入っていくのを目撃していたが、その当時は何の興味も持てなかった。それより隣のジャズ喫茶というかロックの生バンド演奏が聴けるホールの「ドラム」があって、そこの方が気になっていた。健ちゃんはときどき先輩たちと行っているようだ。中学生になったらつれていってくれることになっている。何しろすごいところだそうで出てくる人々は口々に「頭くらくらになったぜ」と言っている。

クラブ、バー、キャバレーがおり重なりネオンで眩しい通りを抜けると、急に暗くなり赤提灯の店がちらほらある細い道に出る。

「暗いな、ここなんだ」わたしが言った。

「どやがいか?」とクジラ。

「ばかだなあ、のみや街だよ」住友が言った。

「でも、安宿みたいなのがたくさんあるよ」クジラが反論した。

「ああ日雇いの泊まるとこだ」住友が解説した。

「今度、家出したとき来ようかな」クジラが深刻そうに言った。

「おまえ家出なんかするの?」

「ああ、家族と喧嘩してとびだすんだ」

「どこ行くの?」

「いくとこないから、すぐ戻るけど」

「だらしないの」

「だから、こんどここに泊まろうかなって」

「おい、小学生おことわりって張り紙があるぜ」

「えっ、どこに?」

「うそにきまってんだろ、ばか」寄席の漫才にも似た二人の会話にわたしはいつもあきれていた。

「おい、ここだよ、入るぞ」健ちゃんの威勢のいい声がした。

切手収集家を相手にする店は、古びた木造の宿屋と質屋の間にこぢんまりと構えていた。中に入ると、客がたくさんおり、その中には小学生らしき者も数人いた。周囲と対照的に中は明るく人いきれで暑かった。店内は静かで、客はあまり会話もせず、ショーウインドにある高価な切手を見ている者がほとんどだった。ときおり売る値段の交渉を店の主人らしき男とぼそぼそ話している声がようやく聞き取れる程度だった。

一度に大量に売っては怪しまれると言うことで、その日は小手調べに二十枚程度を売った。それでも二千円ほどになった。健ちゃんが店の親父と交渉をしてくれたおかげもあって怪しまれもせず、かなり良い値で引き取ってくれた。その当時のラーメンが五〇円くらいだったのでわたしたちにとって見れば相当の小遣いだった。代理人の先輩に手数料を払おうとわたしが提案したが健ちゃんは固辞した。それではと言うことで、近くの「さんぷく」と言う甘い物屋でおごることになった。あんまん、ところてん、アイスクリームを腹一杯食べてわたしたちは満足し家路についた。健ちゃんは「友達と合流する」と言いのこしてネオンが眩しいパチンコ店に消えた。そのあと三人で池袋のローラースケートセンターに行って遊び、ゲームをしているうち結局、切手を売ったお金はすべて使い果たしてしまった。

第四章          新しい仲間

第一節          クジラの金時計  5火

クジラが腕時計をつけて教室に入ってきた。つぎあての半ズボンと半袖の開襟シャツに金の腕時計、目立たないほうがおかしい。休み時間に、クジラが囲まれている。

「かっこいいけど、年寄りくさいな」学級委員の塚田が話しかけた。

「えーと、時間は」クジラは袖もないのに腕を伸ばす仕草をして時間を調べた。

「小学生が、腕時計をしちゃいけないんだ」クラスのマドンナ関順子が明るく叫んだ。関さんは美形のわりには珍しくおしゃべりで目立った存在だった。「今日は出かけるから、母ちゃんが持ってけって」

「ほんとに金時計?」関さんが時計をのぞき込んだ。

「しらねえ」クジラが知る由もなかった。

「どこのメーカー、スイス製かい?」わたしも知らんぷりして訊ねた。スイス製の時計は高級品だと言うことは知っていた。

「どこのでもいいじゃねえか」クジラは変なことを聞くなというようにわたしのことを睨みつけた。

「お父さんの借りたの?」塚田が聞いた。

「まあな」クジラは曖昧に応えた。

「親父の形見か?」クラスの嫌われ者の富田が近づいてきて割り込んだ。富田はどのグループにも入らず、交友は広いが万引で捕まったりしたことがあるのでみんなが疎んでいた。

「だって、クジラの親父、事故で死んだんじゃないのか、だろ?」富田が意味ありげに念を押した。

「だからどうしたんだよ」その話になるとクジラはとたんに機嫌が悪くなる。機嫌が悪いというより気がふさいでしまうのだろう。急に口数が少なくなるか話題を逸らすか、その場を立ち去ってしまう。その様子は知っているはずだが、富田はすぐ口に出す。わたしは好きでも嫌いでもなかったが性格の悪いやつだと思っていた。

「鯨岡君、筆箱も新しくしちゃって」林久美子も話しに加わってきた。久美ちゃんは一年生のときからずっとわたしと同じクラスで家も近いし気心の知れた仲だった。

「景気いいなあ」

「世の中、岩戸景気だし」

「万引きの戦利品じゃないのか?」また富田がおちょくった。富田の言葉は刺だらけだ。

「なに!おまえとはちがうよ」クジラが怒った。

「冗談だよ、怒るなよクジラちゃん」今度は取って代わってやさしい声で言った。

「誰だって、筆箱ぐらい新しく買うさ」

「金時計もか?」

「だから、親父の」

「形見か?なんかウソっぽいんだよな」富田は疑り深く言いった。何か嗅ぎつけたのだろうか。それにその日のクジラに近づく彼の行動にはなにか計略的なものも感じた。

「さてと、オレ何しようかなっと」クジラはそう言って話題を変えそれ以上富田と関わらずに、腕時計をはずしてランドセルにしまいノートを出して一人でマンガを書き始めた。

富田はいきなりわたしの腕を掴んで教室の窓際に誘った。

「木村、おまえなんか知ってんじゃないのか」しわがれた小声でわたしに訊いた。

「なんのことさ」

「クジラの時計、ちょっとおかしいぞ」

「おかしくないよ」

「何が形見だ、クジラの親父死んじゃいない」

「え、だって以前に事故で死んだって」わたしは同意を求めるように言った。

「何の事故で死んだのか知ってるのか」

「自動車事故か?」そう言えば、どういう状況でクジラの親父さんが死んだのかは全く知らないことに気が付いた。

「誰に聞いた?」

「いや、ウワサで」

「だろ、事故なんてなかったんだよ、事件はあった」

「事故がなかったって、どういうことさ?」

「クジラの親父は死んじゃいない」

「じゃあ、どこに?」

「臭い飯、食ってるのさ」

「なんのこと?」

「いま刑務所だってはなしだ」

わたしは思いっきりびっくりして飛び上がった。

「おまえ、気が狂ったんじゃないのか?」

「オレ前のクラスから一緒だけど親父が死んだなんて聞いたことない」そう言えば富田の方がクジラとのつきあいは長かった。

「だから?」

「事件があったの確かだ、高利貸しを刺したとかで捕まったってウワサだ」

「ウソつけ」わたしは興奮していた。「それだってウワサじゃないか」わたしは続けて言った。

「おまえも、ああいうのとはつきあうのは考えた方がいいぞ」富田はわたしの言葉を無視していった。でもわたしに言わせれば、万引きやずる休みが絶えない富田の方がよっぽど胡散臭い存在だった。

それっきりこの衝撃的な話はほかの誰からも聞かなかった。たぶんわたしは富田がウソをついているのだろうと思って大して気にも留めなかった。

しかし、それ以来富田は執拗にわたしたち三人の中に入ってくるようになった。クジラは最初いやがっていたが、富田一流の如才なさでいつの間にかわたしたちに溶け込んでいた。

わたしたちは普段、住友とクジラとわたしの穏健な三人組だったが、富田が入るとやや緊張感をともなった悪ガキ四人組グループに変わるような気がしていた。そしてそれをわたしたちも面白がっていた感があった。富田のせいばかりではない、もともとわたしたちも不良指向があったのかもしれない。三人で後楽園遊園地に遊びに行くときは、入園口からはいる、富田が来ると彼が見つけた抜け道の柵脇から無料で進入という具合だ。

後楽園のローラースケートに行くときも、貸し靴券をごまかすのが富田の役割で、スケート指導がわたし、女の子にチョッカイかけるのが住友、割り勘の調整役がクジラという立ち回りだった。

わたしも商店街の子供だったので、町内ぐるみ親戚のようなもので、近所の家にはよく出入りしていた。サラリーマンの家とは違って皆一応に散らかっておりあまりみぎれいな部屋はなかった。だから、きたない家には慣れていたのだが、富田の家は外見からして並外れていた。

大東亜戦争直後の「ほったて小屋」が、そのまま原形をとどめているという風情だった。友人の父親が何の商売をしているのか興味もない年頃であったが、この家の前に立つとさすがに好奇心を煽られた。学校での噂によると、バタヤではないかという説が最も多く、あとは置き引き、空き巣などと評判が芳しくない。もう一つの説は、暴力団からのやばい仕事の下請けをやっているらしいとの話である。

第二節          富田と野球    6水

普段は野球などやっているのを見たことのない富田が一緒にやろうというのだ。断る理由もないし、人数は多いい方がおもしろいので富田を連れて大塚公園に行くことになった。富田はグローブを持ってなかった。仕方がないので住友が普段使わないファーストミットを貸してやった。住友はいつもバットとベース一式を大きな袋に入れて持ってくる。本当にやる気のあるのは彼だけだった。少年野球チームでレギュラーをとりたいと思っているらしい。

その日のメンバーはわたしと野球少年の住友、どうでもいいクジラ、それに初めて参加する富田の四人だった。一〇人ぐらい集まるときもあるのだがその日は他に声をかけなかったので、仲間だけでの練習となった。住友は相変わらず地域の文京チームのユニホームをきちんと着用してきた。あともメンバーはほんの遊びのつもりだから、普段の服装に運動靴という出で立ちであった。富田は相変わらず継ぎの当たった半ズボンとすり減ったひもなしのズックだった。わたしは四月に買ってもらった、ひもで結ぶタイプの高級品だ。住友のスパイクには負けるが、富田が居ると優越感に浸れるので何となくうれしさがこみ上げてくる。

その日は水曜日で学校が早く終わったので、公園のスペースは低学年が数人遊んでいるくらいですいていた。低学年連中を蹴散らしてバックネットがある一倍いい場所を占領した。集合するとわたしたちはキャッチボールから始めた。わたしと住友、クジラと富田という組み合わせだ。サウスポーの住友はいきなり強いボールを投げてきた。いつもシュート回転する癖がある。たぶんフォームをカッコつけすぎているせいだと思う。投げたあとのフォロースルーに気を使いすぎているのだ。

「スミ、シュート回転だぞ」

「いいんだ」

「投げかたに癖があるせいだ」

「コーチが居るから心配すんな」

「受けにくくてしょうがないよ」

「それより、あいつらのこと心配しろよ」そう言ってわたしの後ろをグローブで指した。

クジラと富田のキャッチボールを見て、思わず笑ってしまった。ボールが手に着かないのだろうぽろぽろ落とすは、そらして取りに行くは、暴騰をするはで野球にはとうていなっていないのだ。

「相手を変えよう」

「そうだな」わたしも同意した。

「じゅん、富田を見てやってくれ」

「ああ」

富田は見るからにやる気がなさそうだった。楽しんではいるようだが、うまくなろうとする雰囲気はない。投げ返すボールに力がなかった。それにとんでもない高いボールを投げて、わたしの体力を消耗させた。受けたボールは二回に一度必ずファーストミットからこぼれた。そろそろ嫌気がさしてきた頃、うしろから住友の声がした。

「バッティングやろうぜ」

「オース!」クジラが訳の分からない歓喜の声を上げた。

「じゅん投げてくれ、オレ打つから」野球についてはすべて住友が仕切る。

「富田がキャッチャー、クジラは外野、いくぞ」それで誰も文句をいうものはいない。

「オース!」また、クジラが叫んだ。

富田のキャッチャーには不安があったが、バックネットがあるので気にしないで投げることにした。最初はコントロールよく構えているミットをねらってまん中に投げてやった。打ちやすい球だったが、住友は見送った。ボールは乾いた音をたてて富田のミットに収まった。富田は自分自身で信じられないと言った顔でびっくりしたあと勢いよく言った。

「ストライック!」

「やれそうだな、トミ」わたしは、初めて愛称で呼んでみた。

「オース」やっとやる気が起きてきたようだ。

一人一〇球ずつ投げてバッティングと守備を順番に交代することにした。

次の球は住友がフルスイングするとクジラの頭の上を越えて茂みの中に消えた。クジラが球を探している。やはり四人の野球は疲れる。

次にわたしがバッティングをすることになり、住友の球を打ってフライにしてクジラが捕球したそのとき。

「君たち悪いけど、場所開けてくれないか」

中学生たちだった。一〇~二〇人はいる。ほとんどのやつがユニホームを着ている。

「でも、先にやってるし」

「そうだよ、ここは予約なんてないし」

「じゃ、反対側でやってくれよ、オレたち試合をやるんだよ」

「でも」

「ふざけんなよ」富田が怒鳴ったが、無視されていた。

「今いいとこなんだよ、オレたちどかないよ」富田ががんばった。

「ほら、どいたどいた」そんな言葉は全く気にせず面倒そうに言い放った。

「やろー」中学生にせまる富田であった。

そうこう言っているうちに、彼らはぞろぞろ入り込んできて、わたしたちを蹴散らし始めた。多勢に無勢、どうしようもなかった。

「おい、むこうでやろ」住友が言い、わたしたちは移動を開始した。しかし、反対側は、バックネットがないので富田が後逸した球を取りに行くだけで大変であろう。続ける気はなく気持ちも萎えていた。

「もう、やめよう、今日は」わたしはすでに諦めていた。

「そうだな」クジラも同調した。

「もっと役にたつことやろうぜ」富田が言い出した。

富田が都立大塚病院に行こうというのだ。大塚公園のすぐ隣接してあり暗くて陰気だった。病院は床屋と銭湯に続いて大嫌いな場所だったが、大塚病院は苔むした建物の古さと陰気臭さでさらにだめを押している。どこで聞いてきたのか知らないが、富田によると大塚病院で死体はこびのアルバイトを募集していて、アルバイト料は格段に高く数時間でとてもいい小遣いをもらえるという。

今考えてみれば、小学生にそんな仕事をさせるわけがないし、だいたいわたしたちはバイトをした経験も一度もないのだ。富田が唯一新聞配達を年を偽って一年間やっていたと言うくらいだ。前の年の夏休みにわたしたちはその下請けをやったことがある。おもしろ半分に自分の家の近く五〇件分くらいを富田から新聞をもらって配るのだ。そして幾ばくかのお金を分けてもらったことがある。その年の夏休みは朝早く起きることが楽しかった。公園で待っていると富田がやってきて皆に担当分を配る。わたしたち三人に配り始めると見る見るうちに彼の分は少なくなりほんの数十枚を持って薄笑いを浮かべながら来た道を帰っていく。いくらのアルバイト料をもらっているか知らないが、富田の事がうまく運ぶときに時々見せるずる賢い目尻だけの笑顔から察すると相当のピンハネをしているらしい。でもわたしたちは夏休みだけのことだし遊び感覚だったから気にはならなかった。まるで手配師のようでうまいことやっているように見えた。一ヶ月間手伝って三〇〇円くらいの稼ぎではなかったろうか。今年から発売された子供向けの週刊誌「少年マガジン」か「少年サンデー」が一ヶ月間毎週買えるぐらいの金は稼ぐことが出来た。犬のいる家やアパートの二階は手数料を高額にくしてくれた。今度の夏休みもまた富田が頼んでくるような気がした。

病院の受付に聞きに行く役目をじゃんけんで決めた。わたしが負けた。

ただでさえ病院の中は迷うのにこんな変なことどこで聞けばいいんだと思った。たまたま近くを通った看護婦を捕まえて訊ねた「あの、死体運びはどこでやってるんですか」看護婦は一瞬たじろいで驚いたあと「地下室じゃないの?」といい「ハハハ」と笑って病棟の方へ行ってしまった。

もうばかばかしくなってそれ以上聞く気にはなれなくなりわたしは引き返した。

連中には「地下室でやってるらしい」といった。

「だから雇ってくれるのかよ」

「それ聞くの忘れた」

「しょうがないなあもう一度行って来いよ」

「冗談じゃない、オレの役目は終わったぜ、場所を聞き出したからな」

「全然役に立ってないんだよ」

「次は富田がいけよ、だいたいおまえが聞いてきた話じゃないか」

さんざんもめたあげく富田が受付に行き話を聞くことになった。長いこと病院の中にいたが神妙な顔をして戻ってきた。

やはりアルバイトを募集しているという話は本当だったというのだ。ただ死体は非常に重いので大人のは運べない、子供が死んだときお願いすると言われたという。ここのところ死にそうな子供はいないからまた来てくれと言うことになったという。そのときは二人一組で来てほしい。死体を運ぶのと体をアルコール消毒して霊安室に安置する仕事も含んでいるそうだ。

みなあきれ顔で聞いていたが富田の調子のよい口調と「アルコール消毒」と「霊安室」というもっともらしい言葉に乗せられ納得してその日はアルバイトの口をあきらめ帰途についた。「死にそうな子供か」どんな子なのだろうと思いを巡らせたが身近にそんな子供もおらず、わたしの想像力はそこでとぎれてしまった。

大塚公園からの帰り道、住友とクジラと別れ二人きりになると富田がわたしに話しかけてきた。

「木村、クジラの腕時計万引きの品物だろ?」

「え?」わたしは不意をつかれて返事に詰まったが、富田はクジラの時計を怪しんでいるものの、発見した宝物のことはまだ知らないようだった。

「何の話?」

「とぼけるなよ」

「知らないよ、クジラに聞いてみたら」わたしは素っ気なく答えた。

「聞いてみたさ」

「ほんとに」

「ああ、まだまだあるって言っていた」

「何が、あるってんだよ」

「わかっているよ、おまえだっていい万年筆持ってるじゃないか」

「これは、誕生日に買ってもらったんだよ」

「三本もか?」

「何でそんなこと知ってるんだよ」

「クジラが言ってたよ、じゅんのやつモンブラン三本持っていて、一本は勉強用、一本は、作家になるため、一本は林久美子にあげるんだって?」

クジラのやつ、口の軽いやつだ。わたしは富田にもう何も話すまいと思った。

「じゅん、オレがさばいてやるよ、現金がほしいんだろ」珍しくわたしのことをじゅんと呼んだ。

「べつに」

「まあ、いいや、いつでも相談にのるからよ、オレにはいいルートがあるんだ」

「富田、おまえそんなにたくさん万引きしているのか?」

「そうじゃないけど、今度いいこと教えてやるよ」

「なんだよ」

「儲けばなしさ」

わたしは富田の言葉が妙に気にかかった。クジラの父親の件といい、宝物のことといい急にわたしたちに近づいてきたのは訳があるはずだ。一度住友に相談して本当の仲間にすべきか考えるべきだと思った。

第三節          ★万引きの朝

富田が仲間に入って以来わたしたちは万引きが常習になっていた。お菓子屋からチョコレートやキャラメルを盗むのは日常茶飯時だった。富田のジャンパーのポケットには大きな穴があいていた。ポケットに手を突っ込だまま、お菓子の山に手をのばしそのままいただいてくるのが彼の得意技だった。わたしたちの万引きの標的はつぎに、本屋に移り、そのあと文房具店、デパートとエスカレートしていった。ほしくない物や必要ない物まで取った。大塚公園で野球をしてからの帰り道、春日通りに面している文房具店の前を通った。店の小ケースの上に青インクと黒インクが交互に整列して階段状に重ねて陳列されていた。クジラが扉が開けはなしの店にふらりと入りピラミッドのてっぺんにあった青インクを1つ拝借してきた。

駆け出して店を出ると

「おい、じゅん!やるよ、作家志望だろ」そういって富田がわたしに手渡そうとした。

「なんのつもりだよ」わたしは青インクの入った箱を受け取った。

「だからそれていろいろ書けよ」

「おまえ、意味のない万引きはやめろよ」

「気にすんなって」富田にはまるで罪悪感はない。

「それにしてもこんなものいらねえ、返すよ」そういって振り返り富田にインクの箱を放り投げようとしたとき、わたしの目に写ったのは、サンダル履きで目をつり上げてこちらに向かい追いかけて来ている少女の姿だった。

少女はわたしたちと同年代に見えた。色白のあどけない面もちで長い髪をポニーテールにして後ろで束ねていた。多分あの文房具屋の少女で留守番をしてに違いないとわたしは思った。わたしたちに追いつくと、彼女は息を切らせながら甲高い声で言った。

「あんたたち、今、うちの品物取ったでしょう!」その迫力に押されてわたし達は、瞬間凍り付いた。わたしはしらんぷりを決めこんで、いいわけでもしながら青インクを返そうかと思いその子に話しかけようとした。

そのとき、富田が「やばい、逃げろ!」と号令をかけた。その言葉を合図に皆は一斉に駆けだした。わたしも一緒に逃げた、その少女は少し駆け出して追ってきたが、わたしたちが路地に入り込むと姿は見えなくなった。この辺は辻町と言って大通りからはいると大人がやっとすれ違えるような路地がたくさんある。わたしたちは完全にその迷路を把握している。どんな大人に追いかけられてももげ通せる変な自信があった。

文房具店からだいぶ離れた安全な路地まで来ると「やろー、おどかしやがって」クジラがいった。

「やろー、たって、女だぜ」わたしがちゃかした。

急な階段にとみたがこしかけた。富田の家はもうすぐ近くだった。クジラも腰掛けようとしたが、狭い敷地に無理矢理作っている階段なのではい上がるようにして上に上り、不安定に腰掛けた。クジラの今にも転がり落ちそうな姿勢に吹き出しそうになった。

「でも、すごい迫力だったな」富田が言った。

「ガキのくせに」クジラが粋がっていった。

わたしにはその少女の鋭い怒りの目元が、記憶に残りその日はそのことばかりを考えていた。青インクはわたしの勉強机の奥に見つからないようにしまった。

その後、それにも懲りずわたしたちは活動地域を広げたあげく、上野のデパートで警備員に捕まった。デパートでの万引きは初めてだった。いつものように、文房具売場で無造作に鉛筆や消しゴムをくすねて階段の方に向かい店を出ようとしたとき数人の背広姿の大人がわたし達の帰宅を妨げた。

「はいはい、上の階に行こうね」

「どんどん階段を上がってね」

言われるままにわたし達は、デパートの事務所に連れて行かれた。

「わかってるね、とったものを全部出しなさい」

「学校はどこ、家はどこ」テンポよく聞いてきた。みんなは押し黙ったままだ。

「じゃあ警察に連絡するか」

ここまできてついに、クジラが正直に住所氏名を白状してしまった。

「文京区大塚の鯨岡です。こんなこと今日が初めてです」

「初めてって、捕まったこと、万引きのこと」

「ま、ま、万引きがです」

今回は万引きした品物の金額も少ないし、初めてのようだしと言うことで学校への連絡はしないで誓約書だけ書いていけばいいとデパートの警備員は言った。

クジラは外に出ると急に元気がよくなり、「学校に連絡したらあのオヤジ殺してやる」と息巻いていた。わたしはもっと長期展望が開けないようなペシミスティックな気持ちになっていた。

「つかまっちゃたんだよ」わたしは健ちゃんに相談した。

「気にするな、じゅんは平気さ」

「どうして」

「限度を知ってる」

「うん」

「これからやらなきゃいい、小学生ならかわいいもんだ誰でも許してくれるよ」

「わかった」また健ちゃんがずいぶん大人に見えた。

しかしそのことがあってわたしは今までのすべての遊びは、否定されるべきものだと思った。時々こういう感情はあったが、次の日には心変わりしすべて肯定され同じように過ごしてきたのだが、今度の場合は何日経ってもやりきれない思いは消えなかった。そして、西瓜を盗んで食べたり、他人の家の屋根を踏み抜いたり、神社のリンゴの数をごまかしたことさえ自分に嫌悪感を抱かせる材料になった。

そのことがあって、わたしはまた、文房具屋の少女のことを思い出した。あのとき反省していればとも思った。こんど、あの青インクを返してこようと思った。次の日、わたしは青インクを持ちだし春日通りの文房具店に向かった。返すときのせりふを何度も考えた。「すみません、出来心でした」「すみません、もうしません」「友達がやったんです、返しに来ました」どんなせりふも的がはずれていた。

思い切って店にはいると少女は居なかった。わたしは拍子抜けをしてしまうと同時にほっとした。今日の行動を持って半分責任を果たしたように思えたからだ。「返す気持ちはあったんだ、でも本人が居ないんじゃ」というような逃げだろうか。その日はノートを一冊買い、青インクはそのまま持ち帰った。

ときどき、学校の帰り遠回りして大塚公園の前を行きその店を覗いたが、いることは一度もなかった。雨に降られながら公園からの帰り道の日曜日、あの少女が店にはいるのが見えた。そう言えば、盗んだときも日曜日だった。休みに手伝いに来ているのだろうか。傘越しだが細い腰、サンダル、ポニーテールに束ねた髪、間違いなかった。わたしは急いで家に帰りインクの箱を取り、文房具屋に向かった。どうするのかはまるで考えていなかった。返して謝ろうと漠然と考えていた。それがあの少女の正義感、勇気、生活感に答える唯一の方法だと思った。なぜそんなことを考えたかと今から思えば、その子の清楚感と対照的な小さく古びたお店の郷愁から来た物だろうか。勢いよく店にはいると、いきなり店番をしているそのことはち合わせをした。

「いらしゃい!」店番には慣れているといった声だった。

わたしは行動計画をはっきりと立てずに彼女と面と向かったことを反省した。狭い店なので彼女の視線の届かない場所は店内にはない。以前から思っていたとおり顛末を話して許してもらおうとした。そのせりふを考えているうち、他の客が何人か入ってきてしまった。何を思ったのか、持ってきたインキをその子に差しだし。「これください」といってしまった。彼女は、何も言わずその青インクの箱を眺めた。しばらくして箱から目をはなさずに値段を告げた。お金を渡すと、青インクを丁寧に紙袋にしまった。やっと顔を上げて「ありがとうございました」といって紙袋をわたしに手渡した。瞬間わたしの顔を見たあと、すぐにわたしの後ろに視線が移動し「次のお客さんどうぞ」といって、さも仕事が忙しいとでも言うような素振りを見せた。

店をでると雨は上がっていた。わたしは無造作に青インクの箱をジャンパーのポケットにしまい込むと傘をステッキがわりにして道路をつつきながら歩き出した。

しばらくすると「ちょっとー、そこの子」という声がした。ふりむくと、またサンダル履きで、ポニーテールを揺らしながらこちらに向かってかけだしてきている。

わたしが立ち止まっていると追いついてきて

「お釣りわすれてるよ」とややあきれたような顔をして、小銭を渡そうとした。

「ああ、ありがとう、お店の方は」

「うん、おばちゃんに」

「ああ」

「あのインクケース、雨で濡れてたよね」彼女が言った。

「え?」

「じゃあね」彼女はそう言うとまた店の方に駆けだしていった。

そのことは仲間には話さなかった。自分ではかなり良い解決方法だったと満足していた。つまり、言い訳が立つと思った。わたしが盗んだ訳じゃない。あとで支払ったが、ちゃんと買った青インクを持っている。そういう理屈だ。

第四節          クジラ殴打秘密  8金

金曜日、学校でクジラの顔を見てわたしは仰天した。右目に青胆を作り唇が何倍にも膨れ上がっている。明らかに誰かに殴られた形相だ。

「おい、どうしたんだよその顔」

クジラの顔は赤チンだらけだった。わたしは顔にけがをしたときは赤チンが厭で目立たないように母親にせがみオキシフルで消毒しただけにしていた。

「そのお化粧、ふざけてやってるんじゃないんだろうな」住友が半分冗談交じりに言った。

「やられたよ」

「誰に?」

「豊島小学校の奴らだと思う」

「ミチヒロとかテツか?」わたしが訊いた。

「わからない、でも、あの体のでかいやつはいた」

「小川ミチヒロだ」

「何かしゃべったのか?」

「何も。オレ口固いの知ってるだろ」

「知らねえよ。でもよかった。橋で見つけた宝のことは何も話さなかったんだな」

「ああ、でも、しつこくてさ、腕時計のことを聞かれた」

「なんて聞かれたんだ?」

「だから、あの金の腕時計はどうしんだということだよ。オレは親父のだという一点張りで通したからな」

「時計を見せたのか」

「そのときは、もっていなかったから」

「あー、よかった、見られれたらもう終わりだぜ」住友が安堵しながら言った。

「やっぱり、あの品物は奴らのだったんだ」

「これからは注意しろよ、絶対人の前で見せびらかすなよ」住友が言った。

それにしても、彼らが何故クジラを昨日襲ったかは依然謎だった。

「おい、奴ら何でクジラの腕時計のこと知っているんだ」

「このこと知っているのは三人だけだよな」

「あと健ちゃんが」クジラが言った。

「健ちゃんは腕時計のことは知らないはずだ。それに健ちゃんが奴らと通じるわけないじゃないか、元々仲が悪いんだ」

「そうだよ、昔からの喧嘩相手だし」

「おまえこの間、クラスの奴らに腕時計を見せていたろ」

「そうだ、富田か。あいつが通じているかもな」わたしが推理した。

「クジラ、おまえ富田に何かしゃべったか?」

「いいや、ただ」クジラの鼻の頭に汗の玉が着いていた。それを見てわたしはクジラが富田に何か喋ったのではないかという厭な予感がした。

「ただ?」

「ただ、もっといろいろな物、持ってるとは言ったけど」

「あぶないな、それ、例えば?」わたしが訊いた。

「じゅんのモンブランはかっこいいって」

「おいおい」

「住友のエロ雑誌のことは、オレ何もいってないからな」クジラは泣きそうなか細い声で住友に向かって言った。

「クジラ、本当のことを言えよ」

「ごめん、腕時計を富田に売りさばくよう頼んだんだ」

「バカヤロ」住友が怒鳴った。

「三人だけの秘密と言うことだったろ」

「そんな約束していないよ」クジラが抵抗した。

「イッセンバシの下で約束したよな、じゅんそうだろ」住友がわたしに同意を求めた。

「そう言えば、そんな気もするけど」わたしの記憶も曖昧だった。

「でも、時計はまだ渡していない、今度富田にあったら、やっぱり親父の形見だから売らないことにしたっていっとくよ」クジラは神妙に言った。

「そうだな、富田には注意しよう、宝物のことは絶対に喋るなよ」

「それで殴ったのは、誰?」

クジラの話によると、囲まれてさんざんこづかれたあと、背の高いヤクザみたいなやつが来て本当のことを言わないとタバコの火を目の玉に入れるっていって脅かした。クジラは恐ろしくて大声で泣き出した。その泣き声で近くの家から主婦が顔を出したので、奴らもあわててクジラのボディに一発と顔に三発殴って逃げていったとのことだった。

その話を聞いてわたしは直感的に感じた。クジラは何かを隠している。何かもっと喋ったかもしれない。鼻の頭にできていた汗の玉はもっと膨らんでいた。

給食が終わったあと、わたしはクジラを鉄棒に誘った。

別に鉄棒をするわけではなくただ二人で話したかったのだ。

「逆上がりはおまえの方がうまかったよな」わたしが切り出した。

「そうだっけか、おまえだってそんなもんできるだろ」

「ああ、でも勢いをつけないとできない。それより、おまえ、なんか奴らに話したんじゃないか?」

「だから、おまえもしつこいな」

「話が遠すぎる。こっち来いよ」隣のやや低い鉄棒に掴まっているクジラをそばに呼んだ。

クジラはのろのろと鉄棒づたいに近寄りしばらくしてから口を開いた。

「やつら、知っているんだ」

「なにを?」

「オレの父親のこと」クジラは容疑者が告白するように言った。

「あの、刑務所にいる?」わたしはそう言いかけて口をつぐんだ。

「なんだ、おまえも知ってたのか」

「いや、富田からこないだ聞いたけれど、オレは信じなかったよ」

「それって本当だよ」クジラはわたしに全く新しい一面を見せた。いつものひょうきんさが消えて淡々と話し始めた。

「傷害事件起こして捕まった。今、別荘暮らしさ」

「別荘って?」

「場所なんか知らない。いい気味だよ。会いにも行かない」

「なんで」

「まあ、いいじゃないか。おれの勝手だし」

「でも、そんなのまずいよ、会いに行ったら?オレなんか親父いないから、ピンとこないけど」わたしはクジラを元気づける意味で何かを言いたかったのだがそんな単純な家庭の事情ではないらしかった。

「あいつのことはよくわかんないんだ。変だろ自分の親父のことわかんないなんて。その日その日で全然様子が違うんだ。小さい頃はホントに別人だと思っていたよ。変な父親が二人いるって。優しいときなんかない最低の男だった。一人は酒を飲みながら不機嫌で黙り込んでいる親父、もう一人はもっと不機嫌で暴力を振るって暴れている親父。最初の犠牲者が母ちゃんだよ。理由もなく殴られてその次は兄貴。オレはそんなとき弟を連れてすぐに外に逃げる。帰ってみるとめちゃくちゃになった部屋で母ちゃんと兄ちゃんが泣いている。その繰り返しだよ。別荘に行ってもらってちょうど良かったよ。もう帰ってきて欲しくないけど、来月に出所だってよ。高利貸しを刺したぐらいじゃすぐ出て来ちゃうんだよ。終身刑か死刑にでもなって欲しかった。今、オレの家はみんな恐怖に戦いている。母ちゃんも兄貴も、弟も」クジラは一気にまくし立てた。

「あいつら親父のやったことクラスのみんなにばらすって脅した。だから宝のことは言ったよ」クジラはさらりと白状した。

「何処まで話したんだ」

「まあ、安心しろよ。本当のことは言ってないから」

「どうゆうことさ?」

「だから、宝を何処かで見つけたヤツがいて時計はそいつから買ったって」

「また、いいかげんなことを」

「誰から買ったか聞かれたろ」

「ああ、中学生のようだったって言っておいたよ」

「それを奴らが信用したのか?」

「そう思うけど」クジラは自信なさそうに言った。

住友が帰り支度をして鉄棒に近づいてきた。その日の話はそれまでになってしまった。わたしはクジラの告白を何処まで信じようか迷っていた。ともかく住友には話さずもう少し様子を見ることにした。

第五節          わたしも殴られる  9土

その日は三人でクジラの災難について話し合いながら帰った。クジラも怖がっていてみなと一緒に帰りたがったのだ。家が近い順番としては住友、クジラ、少し離れてわたしの家だった。クジラと分かれていつも通る小道に入った。その裏通りには長い石垣があり、そのなかに一つだけ異常に平らですべすべした石がある。おまじない代わりに左手で軽く撫でてから大通りに出るのが習慣となっていた。空蝉橋の欄干の硯石と同じで、わたしは変な習慣をいくつも持っていた。いつもその道を通るときは必ず実行した。毎日続けていると、石をさわらないと何か悪いことが起きるのではないかという迷信がわたしの中にできあがっていた。それが長く続けば続くほど、逆に実行しないことの恐怖感に襲われる。その石に触ろうとしたその瞬間であった。

「おい、そこの兄ちゃん」低くてつぶれたような声で呼び止められた。

「なんですか?」

呼び止めた相手が大人だったようなのでわたしはやや安心して返事をした。ところがその後ろから小川ミチヒロが顔を出した。まずいとわたしは思った。

「木村、ちょっと顔かしてくれ」小川が言った。

「なんで、おまえがこんなところに」

「いいから、こいよ」

小川と、長谷川、黒縁メガネのチビ、それに最初に声をかけた大人びたやつの四人に囲まれてとても逃げられる状態ではなかった。わたしはすぐ近くにある工事中の空き地に連れて行かれた。工事場は建設中の囲いで覆われており外には連絡がとりようもなかった。工事用の囲い塀に押しつけられ、彼らの尋問が始まった。

「よう、最近羽振りがいいようだな」小川がいった。大人びたやつは後ろで、タバコに火をつけていた。たぶん奴らの兄貴分の深沢だと思った。背丈は一七〇センチ以上はあるだろう。中学生のくせに無精髭もはえていて、端から見ると完全に大人の雰囲気が漂っている。大人って言うよりおっさんだ。制服を脱いでサングラスをかけると完全にヤクザの雰囲気になる。狐目で、暗い感じのひょろ長くやせて不健康そうに見える。補導歴も何回もあると聞いていた。クジラが言っていたように、タバコの火を目の玉に入れるっていうのだろうか。わたしはだんだんと恐ろしさがこみ上げてきた。

「なんの用事だよ」

「おまえ、最近、なんか見つけなかったか」

「どこで」

「とぼけんなよ、イッセンバシでだよ」

「なんのことだか、さっぱりわからない」わたしは知らんぷりを貫こうと思った。

「鯨岡はしゃべったんだよ」

「だからなにを?」

「わからないやつだな、おまえらが盗んだものだよ」

「だから知らないって」

「鯨岡はおまえが知っているっていったぞ。どうなんだよ」

「でたらめだよ、そんなこと」わたしは、奴らがカマを掛けていると思った。昨日クジラは殴られても何も吐かなかったと言っていた。この場はクジラの言葉を信じて最後まで頑張ることにした。あまりきつかったらそのとき白状してしまえばいいと思った。しかし、そこは場所がまずかった。周りに家はないし道路からは遠い、大声を上げても誰も助けにはこないだろう。

「鯨岡が何いったか知らないけれど、オレには何のこたかさっぱりわからない」

「じゃあ聞くけど、おまえモンブランの万年筆三本もってるんだって?」

「え、なんのことさ?」

「だから持っているのか聞いてるんだよ」

「ああ、持っているけど」

「それ、どうしたんだよ、万引きか?」

「どうでもいいじゃないか、オレ約束があるからもう帰る」

そう言いかけたとたん小川がわたしの胸ぐらをつかんだ。

「殴られたいんだな」

「だから知らないって、モンブランは持っているけど自分で買ったんだよ」

「鯨岡は、イッセンバシで拾ったものだっていてたぞ」小川はそう言ったが、わたしを騙すための罠だと思った。。

「正直に言うと、池袋のデパートで買ってもらったんだよ」

「証拠はあるのか?」

「レシートだってあるよ、今度持ってきてやるよ」わたしはその場逃れのウソを言った。

「いつ買ったんだ?」

「先月、誕生日プレゼントだよ。オレは万引きなんかしないし、拾ったなんてこともない」小川を思いっきり睨みつけてはっきりと言った。

「もういい、オレにまかせろ」大人びたやつが小川を遮った。タバコはもう吸っていない、わたしはそれを見て少し安心した。せいぜい殴られるくらいなら上等だとも思った。「目にタバコの火」のセリフがいちばん怖かったのだ。「おい、おまえ福井の仲間だよな」意外に甲高い声でそいつが訊いた。

「はい、健ちゃんなら知ってますけど」わたしはどぎまぎして言った。

「こいつ生意気だから、こらしめた方がいいですよ、先輩」小川が先輩と呼んでいた。ということはやっぱり豊島小学校の卒業生の深沢だと思った。そいつと目があった。無精ひげが生えて怖そうだがよく見るとまだ子供の顔だった。サングラスを外すと小さい顔は童顔でよくみつとクリクリしたかわいい目をしていた。小川よりも怖くない、話せばわかるという感じだった。その印象に安心してわたしはため口をきいた。

「大塚中学の人ですか?」

「どうでもいいだろ、おまえなめてんのか」そいつの表情が変わった。わたしはしくじったと思った。

「いや、そういうわけじゃ」そう言いかけたとたん今度はそいつが胸ぐらをつかんだ。

「殴られたいのか」

「ウグッ」わたしは何か話そうとしたが声が出なかった。

「小川、こいつ何か知ってそうだ、一発やってやれ」そう言って小川にわたしの処分を預けた。そしてジャンパーのポケットからマッチを出してタバコに火をつけた。わたしはそれを見て恐怖感がよみがえった。二人がわたしの手をつかみ抵抗できないようにしてから小川のパンチがボディに一発はいった。わたしは「グウ」といってうずくまろうとしたが両手を捕まれているのでそのまま宙ぶらりんになった。

「ほら、知ってることみんな吐けよ」そう言ってもう一発ボデイに食らった。

「ほんとに知らないんですから。お願いしますよ」わたしは敬語を使って許しを請い、早くこの場から解放されるよう祈った。

「懲りてないな、じゃあ今度は顔面に行くぞ」小川が言った。

「ほんとに知らないったら」同じ言葉を繰り返した。ボデイパンチの影響でわたしは気持ち悪くなり食べ物を戻した。

「こいつ、ゲロはいた。きたねー」奴らが少し怯んだ。深沢がタバコを持って近づいて来た。

「これはまずい」とわたしは思った。もう白状するしかないと思った。

「タバコ吸ったことあるか?」そいつが訊いた。

「ありません」わたしは正直に答えた。

「吸わしてやろうか」そう言ってタバコの火をわたしの顔に近づけてきた。

「いいっす」かろうじて聞き取れるような声でわたしは答えた。

「もう一度聞く、モンブランはどうしたんだ?正直に言わないと、タバコの火を目ん玉にぶち込むからな」やっぱり来たと思った。

「自分のです。買ってもらったんです」

「本当か?」

「はい」

そいつはわたしの目のそばにタバコの火を押しつける仕草をした。わたしは思わず目を堅く閉じた。もう逃げるしかないとそう思った瞬間、わたしは足蹴りを小川に食らわせ怯んだ好きに二人の手をできるだけの力でふりほどいた。深沢と小川に体当たりして突き飛ばし工事場から逃げ出した。奴らは不意をつかれてとまどっていたがすぐ追いかけてきた。大通りまで出れば人がいるだろうし奴らも暴力は振るえない。その先には交番もある。ところが、あわてていたため足がもつれてわたしは前のめりになり道路に倒れ、顎を思いっきりアスファルトに打ち付けた。膝はすりむけ顎からは血が出ているようだった。目の前が暗くなってそのあと眩しくなった。顎を打ったその痛さで涙が出てきた。上半身起きあがろうとして目を見開くと、彼らがわたしの周りを取り巻いている姿が目に入ってきた。

「逃げたバチが当たったぜ」

「オレたちをなめんなよ」小川が思いっきりわたしの足を蹴った。続いて長谷川もわたしを蹴り上げた。

「人が来る。もう、いくぞ」後ろから深沢がやってきて戻るよう指示した。

「おまえ、あんまりのさばるなよ、またやられるぞ」

「今日のことウソだったら、今度は殺されるぞ」

「泣いてやがる、けっ、弱虫」彼らは言いたい放題いい立ち去っていった。

大勢で一人をやるなんて、その方が弱虫じゃないか。でもわたしは何も言わなかったことと、タバコの火を押しつけられることがなかったことで、気分は悪くなかった。何とかこの場は収まったのだろうと思った。しかし膝のスリ傷と、顎を打ったところが痛くてしばらく立ち上がることができなかった。涙を拭いて、よろよろと立ち上がって大通りの方へ歩き出した。顎から血が滴っているのでかっこわるくて仕方がない。顔を背けながら交番の前を通り過ぎ、林久美子の家の前を通りかかると、やはり見つかってしまった。

「どうしたの、その顔」久美ちゃんが、駆けだしてきた。

「開運坂でころんじゃって」わたしは咄嗟にウソをついた。

「えー、消毒してあげるから、うちにあがんなよ」久美ちゃんの笑顔に正直ほっとしてまた涙が出てしまった。わたしは気づかれないように涙を鼻水と一緒に腕で拭った。

第六節          救いの女神    9土

裏通りから出て大通りに面したところが林久美子の家だった。わたしは断固として家に帰ることを主張した。しかし、わたしは出来の悪い弟のように久美ちゃんに手を引かれて部屋までつれて行かれた。大したけがじゃなかったけれど、念入りな手当をしてくれた。血が出ている顎と膝にオキシフルで消毒してもらった。ころんですりむいた額にバンドエイドをつけてくれた。バンソコウではなくてバンドエイドであることがずいぶんおしゃれな生活をしていると変な感心をした。久美ちゃんの家に上がったのはおととしの誕生日会に呼ばれて以来のような気がした。去年の誕生日会には五年にもなって女子のお呼ばれで出かけていくなんてとても考えられないようになっていた。断りきれなくて約束をしたまますっぽかしたのだ。久美ちゃんの母親が出てきて紅茶を入れてくれた。けがのことをたいそう心配してくれたが、転んですりむいたといいわけをした。久美ちゃんの母親は全く怪しむこともなく、それより去年の誕生日会に来なかったことばかり話し続けた。

「じゅんちゃん来るかと思ってずっと待ってたのよね」

「それもう一年以上前の話よ、ママ、やめて」

「でも久しぶりだったものだから、以前は木村さんの奥さんと一緒によく出かけたじゃないの、お母さん元気?」

「はあ」どうも久美ちゃんのお母さんは苦手だった。よくしゃべりすぎる。人の言うことを聞かない。こちらから話すタイミングを失ってしまう。

お母さんの長いおしゃべりが終わり部屋から出ていくと、久美ちゃんがレコードプレーヤーを押入から出してきた。とてもポータブルでおもちゃみたいなやつだけど、一体型でスピーカーもアンプも内蔵しているらしい。お気に入りのレコード買ったから是非聞いていけというのだ。

「プレーヤーは去年のクリスマスプレゼントで買ってもらって、レコードは自分の小遣いためて買ったのよ」久美ちゃんはお母さんに似てとても早口でテンポよく立て続けに話した。

「レコードは何枚くらい持ってるの」わたしが口を開いたら顎がずきんとして、悲鳴を上げそうになった。そんなことは気に掛けず久美ちゃんは話し続けた。

「毎月ドーナツ版を一枚づつ買っているので、もう、今七月だから七枚ということね」

「すごいね、ぼくなんかラジオで聴いてるだけだもん」

「どんな番組?」

「ユアヒットパレードとか」

「ああ、日曜日の九時半から一〇時までやってるあれね」

「そうそう、文化放送で」

「JOQRでしょ」

「なにそれ」

「局名みたいなものよ」

「久美ちゃん詳しいね」

「だってうちの、パパ放送局勤務だもの」

「そうだったね、前スタジオにつれていってもらったよね」

「じゅんちゃんのおばさん大喜びしてたね」

「だって、中村メイ子とか宮城まり子に会えたんだもの」

「じゅんちゃんFENはきかないの?」

「なにそれ」

「エイトテン、英語の放送よ」

「ああ、健ちゃんの大好きなやつね、でもオレ、英語わからないから」

「音楽聞くだけだから言葉は関係ないわよ。わたし、テレビよりラジオが好きだなあ」

「ああ、オレも、うちにまだテレビないから」

「アハハ」久美ちゃんが肩の力をがくんと落として急に猫背になり軽やかに笑った。

「そう言えば、今度の夏休みうちでもテレビを買うっていってたよ、いつも健ちゃんの家か、親戚の家に行かなきゃならないって、今時かっこわるいよ、力道山の時代でもあるまいし」

「いまかけるからね」

ジャケットから丁寧にドーナツ盤を出しターンテーブルの上に載せた。そして回転を45にあわせスイッチを入れた。レコードが回り出すととても注意深くアームを手にとってピックアップをレコードの溝に乗せた。しゃりしゃりという音が聞こえた。

「なんて言う曲」久美ちゃんは答えず「まあ聞いてみて」と言った。

流れるようなオーケストラのイントロに続いて若い女性のボーカルで、知らない歌手のハスキーな声だった。わたしの知っていたコニーフランシスやヘレンシャピロじゃないことは確かだった。

「歌手は?」

「ジョニー・ソマーズ」

「曲名は?」

「ワンボーイ」

若い女性の歌声はハスキーでも透き通るように響いていた。

「いい曲でしょ、アン・マーグレットも歌っているけどわたしは絶対ジョニー・ソマーズの方がいいと思う」

ジャケットには可憐な金髪の女の子が笑ってこちらを見つめている写真が飾っていた。

「いいスローバラードだね」わたしはわかったような風に言った。

「でしょ」久美ちゃんは満足そうだった。

「久美ちゃん、このレコードの線、何本あるか知ってる?」わたしは得意げに訊いてみた。住友から教わったギャグだった。

「一本でしょ」

「え、知ってるの?」わたしはばつが悪くて仕方がなかった。

「住友君に聞いたよ」

「え、スミここに来たことあるの?」

「まさか、学校での話よ」

話がギクシャクしてきたところでわたしは帰ることにした。

「もうそろそろ行かなくちゃ」

「もう帰るの、じゃあレコード貸してあげるよ」

「いいよ、うちプレーヤーないし」

「いいから、健ちゃんちで聞かせてもらえばいいじゃない」

「そうか、ありがと、今日は助かったよ」

「感謝しているなら、こんど、あんみつか氷イチゴでもおごってよ」

「いいよ、こんどね」わたしは怪我した顎がいたくて、口をあまり開けずにか細い声で言った。

どうして音楽好きのヤツは無理やり自分のレコードを貸したがるんだろう。そして返すときには感想をしつこく聞くに決まっている。熱心に久美ちゃんが進めるままそのレコードを借りて帰ることにした。

久美ちゃんのことは好きだったが女として意識したことはあまりなかった。小学生の時のわたしは、硬派でもなかったがあまり女の子に頓着せず、今ではうらやましい自然体だった。住友が熱心に集めているヌード写真も興味はあったがどちらかというと毛嫌いしている方だった。性的には早熟ではなかった。どちらかと言えば幼かったのだと思う。そのころからチラホラ性的に気持ちいいと思ったことがいくつかあった。休み時間、教室の廊下側を通って外にでようとしたのだが、机は隅の方までぎっしりと並べられてあり、やっと人一人が通れそうな狭い通路となっていた、向こうから関順子が来るので体を横にして歩きすれ違った。そのときお互いに顔を合わせる形ですれ違ったのだが、思ったより通路は狭く関さんとわたしの胸と頬がふれあった。淡い桜色の頬はしっとりしていて衝撃的にとても気持ちよかった。二人とも「え!」という顔をしたが、関さんは大きな口を開けて「あら」と小声でいいそのあとにっこり笑った。

もう一つの体験は家庭科の授業中、机の二つ左隣の住友から裁縫の針を手渡してもらった時のことだ。隣には林久美子が座っていたので彼女の後ろ越しに左手で糸付きの縫い針を受け取った。左手で持つ縫い針は不安定だったので、右手に持ち替えるため「久美、動くなよ危ないから」といいながら右手を彼女の顔の前に回して縫い針を持ち替えたため、彼女を抱きしめるような体勢になっった。彼女は思いがけないポーズに体を硬直させた。

「なにするのよ」と大声を出しわたしの方を振り向いた。そのとき持っていた針が彼女の首に触れた。

「痛い!」と叫びながらわたしの両手の中でもがいた。まるでわたしが彼女に抱きついたようになり、教室の生徒は「スケベ、痴漢、変態!」とはやし立てた。わたしは顔を赤らめたが思いがけず抱きしめた彼女は柔らかくて暖かくてとても気持ちがよかった。その感覚は今でも鮮明に残っている。

それ以来わたしは久美ちゃんを抱く夢をよく見るようになった。プールで泳ぎながらイルカのように泳ぐ彼女を追いかけたり、広いお風呂で抱きしめたり。でも彼女は朝が近づくとするりとわたしの手の中を抜け出していなくなってしまう。そんなときは必ず夢精をしていた。

久美ちゃんは急激に成長しているように感じた。周囲がすべて大人になっていくように感じた。成長の止まっているのはわたしとクジラぐらいだ。その意味ではクジラはよりどころだった。だからクジラまで大人っぽい行動をとると不安でならなかった。あんなに小さいときから遊んでいて隅から隅まで理解していたと思っていた久美ちゃんも六年生になると変化が現れた。今まで履くことのなかった踵が三センチのオレンジのサンダル。おでこに出来た小さなニキビ。女の子同士のひそひそ話。乗らなくなった自転車。スラックスからスカートに変わったのは「この夏の暑さのせい」だといっていたけど少し違うようにも思う。ついつい外れる遠い視線。以前のように話し始めると執拗につかんで離さない視線が消えることが多くなってきていた。

第五章          忍び寄る影

第一節          富田の追求    9土

わたしは何故殴られたのかをずっと考えていた。何故彼らはわたしたちの宝物の件を知っていたのか。疑っていたのか。宝物の存在を知っているのはわたしたち三人のみだ。健ちゃんには切手をさばいてもらっただけで何もうち明けてはいないし絶対の信頼がある。崖崩れ直後の斜面にはわたしたちだけだと思っていたが、他に誰かが居たのだろうか。いや、工事作業員が線路側にいただけで見られては居ないだろう。残るのは、富田だ。彼はクジラの腕時計に異様な関心を示し、執拗にその出所を問いただした。それは父親の形見の品ということでごまかせたはずだ。したたかな富田はそんなことではだまされないかもしれない。クジラの父親が死んでいないと言うのも気になった。わたしたちの一挙動を隈無く観察して真実を突き止めるかもしれない。富田にはそんな執念深さがあった。自分の関心のないものには寄りつきもせず、だが一端くらいつくと、とことんはなさないスッポンのような性格だ。わたしの淡泊で鷹揚な生き方とはまるで正反対である。彼にはそれだけの生活力がある。たぶん小さな頃からの境遇がそうさせたのかもしれない。ともかく明日の宝の移動は中止した方が良さそうだ。わたしは公衆電話ボックスに行って住友に明日橋で会うことを約束した。クジラの家も電話はないのではあした家に寄ってさそうことにした。富田には悪かったが彼は誘わずに三人でまず話し合おうと思った。

日曜日の昼頃、その日も相変わらず連続した真夏日の真ん中だった。住友がクジラを連れてわたしの家に迎えに来た。そこで話し合って出たわたしたちの結論は、富田が奴らと通じているに違いないと言うことだった。彼はわたしたちの本当の仲間ではないこと、我々に近づいてきた理由が不純なのではないか、さらに彼はわたしとおなじように豊島小学校の校区近くに家がある。以前からあの小学校の連中とは顔見知りが多い。情報は筒抜けなのかも知れない。わたしたちは富田の家を訊ねることにした。

富田の家は二階建てだが、階下にある小さな窓からはがらくたが無造作においてある様子が見えた。がらくたのようにみえた機材類はみな油っぽく、自動車かバイクの機械部品を扱っているような倉庫だった。すべてがすすけていたが、倉庫の入り口に掛けてある南京錠だけが光っていた。

外から声を掛けると彼は在宅していた。寝巻きのような姿で二回の踊り場に姿を現し「おう、なんだよ。階段上がって来いよ」といった。

富田の家族の住む場所は二階のようだ。梯子段をやや上りやすくしたような階段がいきなり道路脇にあり、体をかがめないとつかめない低い木の手すりを頼りに軋ませながら上っていく。子供がやっと二人ほど立てる踊り場には梅や松の鉢植えがいくつも置いてあり、周辺をよけい狭くしていた。

入り口は引き戸でその日は開け放ってあった。中は暗くて奥の部屋はよく見えなかったが、歩くと少し沈む感じの畳で四畳半くらいの広さがあった。やたら天井が低いせいかともかく狭苦しい洞窟のように見える。小学生のわたしでさえで、身をかがめたくなる。さらに暗い奥の部屋は台所で、昼食後の食器類がそのまま流しにつけてあった。ほかの家族は出かけているようであった。家具の様子から推察すると、どうもこの二階の二部屋で家族全員が生活しているようだった。中は陽射しが遮られひんやりとして気持ちがよかった。

「おまえ豊島小の奴らと仲がいいのか?」住友が切り出した。

「何の話だよ」富田がまずとぼけて見せた。

「わかってるくせに」クジラが応酬した。

「全然わからないよ」

「富田、今正直に言った方がいいぞ、後で話がややこしくなる」とわたしが言った。

「つまり、オレたちの、見つけたもののことだよ」

「知らない」

「じゃあ、クジラの持っていた腕時計はどうしたと思う」

「親父の形見だろ?」父親が生きているという話は出さなかった。

「じゅんのモンブランは?」

「誕生プレゼントさ」

「質問を変えよう。小川ミチヒロ知ってるよな」わたしは攻め型を変えた。

富田は低い天井を見て首を何回もひねった後、思い出したように答えた。

「あの、豊島小学校の太ったヤツ?」

「そうそう、最近あったことは?」わたしも天井を見てみたが、不思議なことに所謂天井はなかった。よく見ると屋根そのものだった。傾斜が緩い屋根がそのまま見えているのだ。ここに天井をつけると完全に大人の頭はぶつかってしまうと思った。

「ないよ」ぴしゃりと言った富田の声で我に返った。

「ウソつくなよ、オレ大塚駅で一緒のところ見たぞ」おなかに力を込めて一息に言った。わたしはカマを掛けた。

「え、いつ?」

「最近だよ」わたしの顔を覗き込むようにしてから、またしばらく考えていた。

「ああ、そういえば偶然会ったことがあるなあ」

「やっぱり」心の中でヤッタと思った。

「そのとき何を話したんだ?」住友が詰問した。

「なにも話してないさ」

「おまえ奴らのスパイ・・・」とクジラが言いかけたとたん富田の態度が一変し声をあらげて喋り始めた。

「おまえら何が言いたいんだよ、聞きたいことがあるならはっきりいえよ!さっきからきいてればネチネチしやがって、やってられないよ!」ものすごい剣幕でまくし立てた。わたしたちはそれを聞いて少しひるんだ。クジラはその勢いに驚いて二三歩あとずさりしていた。

「オレが、奴らに何か密告してとでも言うのか、オレはおまえたちのこと何も言ってないし、奴らとは家が近いし会うことだってある。でも何もたくらんじゃいないよ。たくらむ必要もないじゃないか。そうだろ木村?」そこまで一気に話すとわたしの方に向き直った。

「なんとか言ってくれよクジラ、オレたち仲間だろ」

「住友、これからも一緒に野球しようよ、ピッチング教えてくれよ」富田はわたしたち一人一人順々に訴えかけた。しばらく誰も口を利かなかった。

わたしたちは、示し合わせるでもなく住友の返事を待った。住友もどうしようか迷っているようで、ぼろ屋の中をきょろきょろ見回していた。天井のないのに気が付いたのだろうか、びっくりしたような顔をして上を向き首を回す仕草を繰り返していた。

「何とか言ってくれよ、住友!」富田が田舎芝居の芸人のようなセリフでせっついた。

「まあ、いいや富田」住友がどうにでもとれる裁定を下した。

「住友、やっぱ信じてくれたんだような、さすがリーダーは違うぜ」富田は住友を褒めちぎり歯が浮くようなお世辞を連発した。いつ住友がリーダーになったのかわたしは不満だったが、まあ、外から見るとやはりリーダー格に映るのかと思い納得してしまった。

富田はどうやってあんな啖呵を考え出すのだろうか。誰に教えてもらったのだろうか。押したりひいたり自由自在に言葉を操る。そして住友を説得すれば何とかなるという計算も働いていたようだ。しかたがなくわたしたちは彼に疑いを掛けることをやめて、以前のように付き合うことにした。もちろん、仲間として行動すること、奴らに近づかないことを誓わせた。しかし、考えてみれば何の解決にもなっていなかったのだ。住友はわたしに寄ってきて「まだ信用した訳じゃないからな」と耳打ちしてからみんなに「暑くてやってられないぜ、今日はプールだ!」と大声を出して誘った。

第二節          りんご籾柄と神社 10日

区民プールは着替えの施設がぼろで気に入らなかった。それにいつも混んでいるが、家から近いし豊島区民ではないけれど小学生は料金が安いので頻繁に利用していた。何度もプールに行く計画は延期されていたのでその日は本当に久しぶりだった。急いで着替えをすまし足から水に入った。ひんやりとして身体を刺すような刺激を期待していたが、その日は暑さと混雑でぬんめりとした緊張感のない水質だった。

「何だ、風呂みたいだ」

「ぎゃ、ぬるま湯だ」クジラも不平を言った。

それでもその日の暑さをしのぐには十分だった。相当に混雑していたので競争したり、まっすぐに泳ぐのは不可能だった。人をよけくねくねと曲がりながら平泳ぎでプールを横に往復したがどうしても誰かにぶつかってしまう。しかたがないので石をなげて拾う遊びをやった。これには裏技をつかった。同じような形の石いくつか持っていて遠くへ投げる、探してうまくいかなければ持っているのを披露するというやり方だ。この掟破りの方法でわたしはいつも一番になれた。プールの二時間はすぐに過ぎた。

プールの帰りは必ずアイスキャンデーを買って食べるのがわたしの習慣だった。住友と富田は家に戻ったので、わたしとクジラはキャンデー屋に寄り道することにした。わりばしに長さ二〇cmほどの丸い筒状の白いアイスキャンデーで割り箸の先に当たりのマークが刻んであればもう一本もらえる。あたり棒は割り箸の先に焼き印らしき焦げ付いた字が押してある。当たり棒をごまかすため、誰かがはんだごてを使って偽造して大量に当たり棒が出回ったためキャンデー屋が警戒をした。そしてついに「アタリ」を「あたり」とひらがなで書い偽造した輩がおり、それ以来アタリの割り箸はキャンデー屋からすべて姿を消してしまった。

プール隣の天祖神社の南側には広い空き地があった。空き地の廃材に腰掛け、ちんちん電車が通るのを眺めながら食べるアイスキャンデーは最高だった。けだるく疲れた体に甘い香りの糖分が全身を癒してくれる。プールで少し冷やされた身体はすぐにまた焼けてきてまた肌の茶褐色に磨きが掛かった。

アイスキャンデーをしゃぶりながら、神社そばの空き地で休んでいると、角刈り頭にタオルでねじり鉢巻きをした姿の兄ちゃんが木箱を肩にかついでバールを手に持ち、駅の方から空き地につながる階段を上ってきた。板の切れ端を合わせて作ったような木箱は、からだの大きなその兄ちゃんでもたいそうな荷物を苦労してかついでいるように見えた。空き地のほぼ真ん中までくると木箱を大事そうに地面におろした。額には汗が噴き出しており、ねじりはちまきのタオルをとって顔と頭を拭いた。ランニング姿の首から肩にかけては木箱が食い込んだ後がくっきりと赤い線になってみえた。木箱の上蓋をバールで丁寧にそして素早くこじ開けた。きゅっきゅっと音をたてながら釘が抜かれると中からはものすごい力で押しつぶされて詰め込まれていた籾殻が勢いよく飛び出してきた。そして少し小振りの青いリンゴも籾殻の中から顔を出しているのがみえた。たぶん駅前商店街の果物屋の従業員に違いなかった。汗を拭き終わった兄ちゃんはタオルを今度は腰のベルトに挟み、これから始まる退屈な作業を呪うような顔つきで、ひと息ついたあと「おらよ!」と言って、箱を空き地の真ん中でゆっくりとひっくりがえし籾殻の山を作った。空き地には木陰がない、太陽に照りつけられている籾殻の山の中からいくつもの若草色の粒が光っていた。わたしたちはものすごく平和な気分でアイスキャンデーをなめながらその作業を眺めていた。果物屋の兄ちゃんは籾殻の中からていねいにリンゴを取り出し開けた空箱の中にひとつひとつ戻した。作業が終わると来たときよりやや柔和な顔になってリンゴの入った箱を肩にかついでもと来た道を戻っていった。それは、わたしたちのいる間に数回繰り返された。わたしたちはアイスをとっくに食べ終わっていた。

何回目かの作業の後、果物屋の兄ちゃんはわたしたちに声をかけた。

「おまえら暇そうだな」

「まあね」わたしが生意気そうに言った。

「おまえら手伝ったらリンゴやるから」そう言ってわたしたちを軽作業に誘った。

「どうすればいいの」元々わたしたちは何もすることはなかったし、その誘いの二つ返事で乗っていった。

「オレがここのにリンゴ箱をひっくり返すから、おまえたちはその中からリンゴを探して箱の中に戻す。簡単だろ」

「わかった、探して箱に入れればいいんだね」

「ああ、傷つけないでな、丁寧にやれ」

わたしたちはリンゴ箱をひっくり返して中身を空き地に広げた。籾柄の大きな山の中からリンゴを採りだしては箱に入れた。クジラの方を見るとやつも一生懸命に働いている。籾殻は暖かく乾燥していた。砂場の宝探しのようでこちらが入場料を払って遊ばせていただきたい気持ちだった。大人の仕事なんてチョロいものだと感じた。

わたしたちが楽しんでリンゴを探しては箱に詰めている間、果物屋の兄ちゃんはわたしたちがさっきまで休んでいた廃材の上に腰を下ろしてタバコを一服しながら、遠くにみえる大塚駅に山手線の電車が出入りするのをぼんやり眺めてた。その態度を見ていたら仕事さぼって子供にやらせている搾取者のようにおもわれ良い気がしなかった。

「おまえたちどこの学校?」また、大人の紋切り型の質問が始まったと思った。

「豊島小」わたしは瞬間的に嘘をついた。クジラがわたしの方を見た。

「オレの後輩だな?」

「ああ、そお」気のない返事をした。

「何年生?」

「六年」会話はそれ以上続かなかった。

わたしはすべてのリンゴを箱に入れたふりをして一つを籾殻の山の中に隠した。籾殻を探して自分が確保したリンゴ以外に確認できなくなったところでクジラに声をかけた。クジラも作業を終えていたようで、「もうない」と言うように手を横に振る仕草をした。

「終わったよ」とわたしたちは果物屋の兄ちゃんに声をかけた。

「ごくろう、じゃあごほうびだ」果物屋の兄ちゃんはそういって、わたしとクジラに商売には向きそうもないできるだけ不格好で傷物のリンゴを選んで一個づつ給付し、肩にリンゴ箱をかつぎ機嫌よく口笛を吹きながら帰っていった。

果物屋が帰った後クジラがわたしに言った。

「おまえ隠したろ」

「おまえもな」

「いくつ?」

「ひとつ」

「オレも」

わたしたちは味を占めて、また次に果物屋の兄ちゃんが来るのを待った。結局その日は二回手伝いをして四個の戦利品があった。

第三節          放置自動車事件  12火

空蝉橋から春日通りに抜ける道は車がほとんど通らない割には幅広で、道路脇は近所の住民の駐車場と化していた。その中に数週間置きっぱなしの茶色の小型乗用車があった。たぶん古くなったのでそのまま放置してある車だと思っていた。タイヤは左前輪がパンクしたまま、埃りだらけでナンバープレートは外されていた。そばを通るときにいつも気になっていたが、ドアに手をかけて引いても開かなかった。ところがその日、皆と車のそばを通りかかると左ドアのウインドウが割られていてロックが外されていた。誰かが中の物を盗んだに違いない。

「おい、中に入れるぞ」住友がやや興奮しながら言った。

「やばそうだな」クジラが言った。

「オレが運転する」そういって住友が車のキーを探したがあるわけがない。

わたしも中に入り助手席に座った。ダッシュボードの中を探ったが、車検証も取扱説明書もなく古ぼけた地図が一冊あるだけだった。

「こりゃおもしれえ」クジラは車の屋根に上がったり、トランクに入ったりやりたい放題だった。

車を運転することは憧れだった。自宅には車は所有してなく健ちゃんのオートバイの後ろに乗せてもらうのがせいいっぱいだった。住友は運転席に座ってハンドルをにぎり、口でエンジン音を出しながら悦に入っている。唇を振動でふるわせぶるぶる言わせていた。まるで金魚鉢の中の金魚が口を上に向け空気を求めているようだった。車中はガラスが破られていたため細かい砂や土で汚れておりわたしたちの洋服はいっぺんに粉をかけられたように埃っぽくなった。

「おい、気分がでないな、外に出て車を揺らしてくれよ」住友が言った。

「おまえやれよ」わたしが住友のわがままを制した。

「じゃあ、じゃんけんだ」クジラを入れて三人で対決した。

結局、わたしが負けて外に出て後ろのバンパーの上に立っておもいっきり体重をかけてクッションを利用して揺らした。

「どおだ、気分でたか?」わたしが叫んだ。

「うん、最高だけど、もっともの凄くやってくれ」住友が要求した。

こんどは車の前に回って、前方のバンパーに足をかけて揺らした。ウインドウ越しに子供が一生懸命になってハンドルを握りしめている姿を見ていると、なんだか滑稽に見えた。揺らしているとボンネットのロックがはずれているのが分かった。揺らすのを止めボンネットを上げると機械がぎっしり詰まっているのが見えた。住友が車から出てきて二人で中を覗き込んだ。

「これがエンジンで、これはキャブレター、バッテリー」住友は、聞きもしないのに次々と部品の説明をしていった。かなり詳しいようだった。そう言えば住友の家には自家用車があるし、オヤジは自動車会社に勤めている。

「このバッテリー使えそうだな」

「なににつかうの?」

「明かりをつけたり、電気の実験をしたりできるのさ」住友が解説した。わたしはそれがとても貴重品のように思えた。

「もらっていこうよ」

「はずせないかな」

「トランクに工具が在るはずだ。クジラみてこいよ」住友が言った。

クジラがマイナスドライバを持ってきた。住友はドライバーを使ってバッテリーを止めてある部分と配線されている部分を丁寧に外しバッテリーだけを取り出した。

「まだ使えそうだ、ショートさせるなよ」

道路にバッテリーを置き、ボンネットをすごい音を立てながら閉めた。この戦利品を使っていろいろ遊べそうだ。それに、わたしは住友の実験という言葉に大いに惹かれ夏休みの工作に利用することも思い浮かべ楽しい気分になった。

「運転の続きをやろうぜ」

「揺さぶり要員交代!」わたしが号令を発した。

運転席の気分は上々だった。キーを入れて回し、エンジンがかかる音を口でまねした。ハンドルの下を見ると、キーボックスとドアの間に蜘蛛の巣が張っていた。こんなところで獲物はあるのだろうか。考えていると、さっきからの騒動に驚いたのか一匹の蜘蛛が這い出してきた。やや大きめの家蜘蛛だった。捕まえようとすると蜘蛛はジャンプして住友の腕に留まった。住友が驚いてのけぞると「ぎゃー」と言って、わたしに何とかしてほしいと懇願した。わたしにとって蜘蛛は友達だった。憎めない昆虫なのだ。蝶々は嫌いだった。羽化する前は毛虫だし、羽は壊れやすいし、なにより吹き出す羽の粉がいやだった。カブト虫は怖かったが蜘蛛とミミズは全く平気だった。住友がたたき落とそうとしているのを制止して、わたしがつまみ上げ手のひらに載せた。一センチほどの蜘蛛だが殺したくはなかった。蜘蛛は益虫と言う概念があったので、そのために親しみがわくのだろう。祖母から朝の蜘蛛は縁起がいいとか、蠅とか蚊の害虫を捕ってくれる益虫だから大事にしろといわれてきた。指で柔らかく捕まえてウインドウから手を出して外に逃がしてやった。蜘蛛は糸を引いて初夏の風に乗って公園の方のとばされていった。

クジラが外にでて今度は車の横に立って揺さぶった。力一杯やるが非力なのもあって全然迫力がない。今度は車の屋根にのってジャンプを始めた。屋根上でがんがん鈍い音が響き、埃が落ちてきた。そのうち天井が少しへこみだした。

「うるさいだけだ、もっと何とかしろ!」住友が後ろの席でふんぞり返って怒鳴った。

「屋根がぼこぼこになった、オレ知らねー」クジラが楽しそうに叫んでいる。

「だからもっと揺らせよ、後ろのバンパーがいいぞ」

「わかった」クジラは車の屋根からおりてうしろにまわり、最初にわたしがしたようにバンパーの上に立って揺らし始めた。

「それ、それ、いい調子だぞ」すうかり運転している気分になり、楽しくなった。

「もっともっと」言いながらハンドルを左右にきり続けた。小さい揺れに混じってときどき大きな波がやってきた。

「いいぞー、クジラ」言いながら変な予感がした。クジラがこんなに力があるはずがない。バックミラーを見ると自分の顔が見えた。ゆっくり後ろの窓が見えるようにミラーを調整すると、泣きそうになっている顔のクジラの隣に何処かで見た顔の、からだの大きい子供が一緒になって車を揺らしている。

「だれだ?」後ろを振り返ると住友は気づかずに足を組んで、専用車の後席でくつろいだ会社社長のような体勢でふんぞり返っていた。

「おい、なんだか外の様子がおかしいぞ」わたしは後ろの席で相変くつろいでいる住友に言った。

「なにが」といいながら住友は後ろを振り返った。

「やばい、隣の学校の奴らだ」

「おすもうさんだ」その叫びが終わる前に、屋根の上からもの凄い衝撃音があり天井が大きくひずんだ。わたしたちは思わず頭を手で覆った。

ドライブが最高潮になっていたところで、豊島小学校の奴らが来たのだ。ここは豊島区で奴らの学校にも近い。彼らのなわばりだった。

「おまえら、こんなとこまで遊びに来ているのか」車の外から大きな声がした。彼らだということは直ぐ分かった。彼らは小川を入れて四人いた。形勢は不利だ、面倒なことになる前に速く逃げる方がいい。

「悪いかよ!」住友が、気負っていった。

「だれの車だこれは」小川がドスの利いた声で言った。

「オレたちが見つけたんだ」クジラが応酬した。

「おや、こないだの泣き虫のお兄ちゃんじゃないか」小川がクジラを見ると言った。

「お顔の傷はもう直ったかい?」長谷川もにやにやしながら近づいてきた。

「おい、じゅん、こないだはよくも逃げたな」小川がすごんだが、わたしは何も答えなかった。

「人の車こんなにして、まずいんじゃない」ソバ屋の玉木が口を出してきた。

「壊れてたんだよ、知ってるくせに」わたしも負けずに口をトンがらせた。

「一ヶ月前から置きっぱなしだよ」

「あんまり、オレたちのシマ荒らすなような」長谷川が肩を揺らしながら言った。そして長谷川は道路脇に置いてあるのバッテリーに目をつけた。

「いい物があるな、これもらって行こう」長谷川が勝手に持ち帰ることを宣言したが、わたしたちは誰も反発しなかった。

「とってこい」玉木が黒縁メガネに命令した。

黒縁メガネは言われるままに、バッテリーを重そうに持ち運び、南の島の原住民がキングコングに捧げものをするような物腰で差し出した。

「なんだよ、おまえが運ぶんだよ」小川に言われて黒縁メガネは不満そうに言った。

「でも重いよ」

「だから?」みんなから無視されそれで会話は途絶えた。やはり、黒縁メガネはいじめられていると思った。

「バッテリー少しは金になるかなあ」小川が言った。奴らの動機は不純だと思った。わたしは、実験に使おうと思ったのに。しかし多勢に無勢わたしたちは逆らえずに彼らの行動を見守っていた。彼らはそれ以上わたしたちにはかまわずバッテリーを運んで帰っていった。

「ちきしょう、なめやがって」住友とクジラが同時に言った。

「もう帰ろう、つまんねえ」

「今日の遊びは終わりだ」

「やつらはいつも連んでいる。一人じゃ何もできやしない」

「情けないよな」クジラが憤慨して言った。連んでいるのはわたしたちも同じような気がした。でも三人は自由だ、拘束される物はなにもない。

「それに奴らには完全に序列がある、オレたちは平等だよな」クジラはわたしたちのグループの優位性を盛んに主張した。

「黒縁メガネなんて完全に奴隷だよ」

「奴ら楽しそうじゃないような、それが決定的な欠陥だ」

「うん、あの黒縁メガネは完全にいやがっている」

「ともかく、奴らこのままじゃ置かない」住友が強がったが、何をするすべもなかった。わたしたちは打ちひしがれたまま、帰途についた。

第四節          仕返しの作戦   15金

次ぎ日の放課後、わたしたちは大塚公園に集まった。キャッチボールをする予定だったがいっこうにボールを投げようとする者はいなかった。グランドにつながる石の階段に座って、ほかのグループの草野球を眺めていた。階段の脇溝には高台にある噴水からの水が勢いよく流れていて、じっと見ているとしばらくのあいだ暑さを逃れられるような気がした。

わたしたちの怒りと敗北感は頂点に達しており野球どころではなかった。放置自動車での件でわたしたちの遊びを邪魔されたのが我慢できなかった。

「もうやるしかない」住友が思い詰めたように言った。

「これ以上ほっといたら、あいつらのやりたい放題だよ」わたしも思いっきり声を低くして押し出すように言った。

「でも、体のでかいやつには勝てっこないよ」クジラはため息をついた。

「小川のことか?あいつ小さい頃は弱虫だったんだけどな。こんどぶちのめしてやろうぜ」わたしはそう言いながら運動靴と靴下を脱いで流れる水に足当てて堰き止めた。火照った足が冷やされると身体全体に活力がみなぎってくるようだった。堰き止められた水はすぐにあふれて階段に広がって流れた。

「最近、体もすごく大きくなってるし、柔道も強いっていうじゃないか」クジラが弱々しく付け足した。

「知恵を働かせるんだよ」と住友が言った。

「仲間は富田を入れたって四人しかいないし、勝てない喧嘩したってしょうがない。オレはやらないよ」クジラは相変わらず消極的だった。

「富田?あいつは入れない方がいい」わたしはまだ富田を信用していなかった。

「じゃあ三人でやるのか、絶望的だ!」

「何か作戦があるのか?」わたしは住友に訊いた。

「不意打ちをくらわすんだ」住友は左手のグローブに軟球ボールを何度もたたきつけて言った。

「いつ?」「どこで?」わたしとクジラが矢継ぎ早に訊いた。

「こんどの縁日でやる」住友がきっぱりと言った。

つぎの大塚駅前の縁日は七月一七日の日曜日だった。

「あさってかい、どうして?」素朴にわたしが訊いた。

「何で縁日に奴らが来るってわかるんだよ?」クジラもたたみかけた。

「おまえら、耳の穴かっぽじってよく聞けよ。きのう帰ったあと、松屋デパートに行ったんだよ。そうしたら偶然、ヤツに会った」

「だれ?」

「おすもうさん、小川だよ。三階の売場でお袋さんらしい人に、金魚鉢を買ってもらっているのを見たんだ。これは奇跡というか、神様の思し召しというか」住友は得意そうに言った。

「だから?」

「だから、あいつは、必ず金魚スクイをやるはずだ」

「どうして?」わたしとクジラが同じ質問を繰り返した。

「まだわからないのか?おまえらほんとにボケナスだな」住友がクジラとわたしを一緒にしたのは気に入らなかった。

「母親が金を払っているとき、金魚は今度の縁日で取ってくるようにいっていたんだ」

「ふーん、意外と準備いいヤツだな。オレなら金魚すくってから入れ物を買うことを考えるけれどなあ」クジラが感心して言った。

「だから、あいつは必ず今度の縁日で金魚スクイをやるはずだ」

「うーん、そして?」わたしはアイディアが出て来ずに唸った。

「金魚スクイに夢中になっているところを後ろから押すんだ」住友はそう言ってわたしの肩を強く押した。

「あいつは金魚スクイの桶に頭を突っ込む。馬鹿でかい体だから桶から金魚があふれて大騒ぎになるはずだ。な、いい考えだろ」

「頭ぶつけた上に金魚スクイ屋のオヤジに怒られる」わたしが付け加えた。

「そしてそれを見届けて、オレたちは逃走する」住友が続けた。

「仕返しされるぞ」とクジラ。

「縁日だろ人が多いし、誰がやったかわからないさ」

「まあな」

「それにやるときは、お面をかぶるんだよ」住友は浅黒い肌によく似合う白い歯を出して笑った。

「うんうん、スミおまえ頭いいな」ニヤニヤしながらクジラも話に乗ってきた。

「もし見つかって、追いかけられたら?」わたしはさらに念を押した。

「うーん」住友はまた、グローブにボールをたたきつけた。ぱしっという乾いた音がした。

「むしろおびき出したらどうだ、だめ押しに」わたしがアイディアを出してみた。

「よし、もし奴らが追ってきたら、神社の裏に逃げ込むからクジラは先回りしてそこで待ってろ」

「そして?」

「ロープ作戦だ」

「ロープ?」

「オレがおびき出して、駆け込んでくるから、神社の庭の狭い道にロープ張って準備しているんだ」

「おうよ!」クジラが威勢良く叫んだ、

「来たらロープで転倒させる」住友は階段の下まで降りていき走って転ぶまねをして実演して見せた。

「転んだら、砂かうどん粉を目つぶし食らわせて、後は袋叩きだっていうのはどうだ」わたしもグランドに降りて、砂を掴み住友に掛けるまねをした。

「ついでに胡椒の粉もかける。これは利くぜ」クジラが武器の追加を申し出た。

「おもしろい、やろうぜ」住友も賛成した。

「よし、お面を買おう」クジラが叫んだ。

「そうだな、顔を見られないのに越したことはない」わたしも理知的に同調した。

「奴ら何人で来るのかな?」

「そんなのわからないけど、ひとりじゃないだろ」

「ともかく、準備をしよう」

わたしたちは、前もって縄跳び用のロープと小麦粉、胡椒を分担して持ち寄り、お面は縁日でそれぞれ気に入ったものを買うことにした。

「戦う武器はどうする、オレ兄貴の竹刀と木刀があるよ」クジラが言った。

「よ!剣道の達人」わたしがはやした。

「無手勝流だ、武器はいらない」住友が言った。

「ナイフはどうする」クジラが言った。

「まずいよ」わたしが常識的に答えた。

「じゃあ、ピストルは?」「機関銃も」「火炎放射器なら一発でしとめられる」話は止めどもなく発展し、わたしたちは存分にそれを楽しんだ。作戦は必ず成功すると信じていた。

「そんなに武装したいなら、駄菓子屋で売ってる癇癪玉でももって来な」わたしが言った。

「お守りぐらいにはなるかもな」住友が言った。

「ネズミ花火か爆竹って言う手もあるなあ」クジラもたまには良いことを言う。

「二B弾も持っていこう」わたしもだんだん楽しみになってきた。

「やつらの横暴は、もう許さない。最高の計画だ、失敗するはずがない」住友は重々しく言った。

わたしのそれまでの経験では、この手の計画は予測通りに行ったことがなかった。予測通り行くのは食べ過ぎた次の日の腹痛、朝寝坊のあとの遅刻、勉強しないで受けたテストの結果とか悪いことばかりだ。すばらしい結果が予測される計画などうまくいくためしはなかった。しかし、このときの作戦は完璧なように思われた。これ以上の方法は見あたらないし、必ず成功するとわたしたちは確信した。

第五節          夜店での反撃    16日

駅前は、夕方の行楽帰りの人々や買い物客で混雑していた。七の日は天祖神社の縁日で、その日は日曜日と重なったためたいそうな賑わいと活気があるようにみえた。

わたしたちは、人だかりがまばらな瀬戸物売り場のところへ集合した。そこは出店の中でも駅から離れた道路沿いの場所で、賑わいも少なかったので仲間を見分けるのが容易だった。わたしが集合場所に着くと、グジラと住友が茶碗を手にとって話し込んでいた。子供が二人で茶碗を物色しているのは何とも怪しげな風景だった。声をかけると偶然に出会った友人を見るような目をして驚き、一呼吸してから「なんだ、じゅんか」と言った。最初からの約束の場所で会ったのに二人は妙にびくびくしていた。作戦がいよいよ決行することで緊張しているのだろうか。それとも住友が動物の絵がついた茶碗を持っていた照れくささなのだろうか。ともかくわたしも含め皆落ち着かない様子だった。

「一応、富田にも声をかけたから」クジラが言った。

「ええ?やばいよそれ」わたしは拒否反応を示した。

「オレが頼んだんだよ。まあ仲間は多い方がいいじゃないか」住友が頼んだなら仕方がないと私は思ったが、よけいな不安材料だ。

「人によるよ。スパイだったら筒抜けになるぜ」

わたしたちは富田を待っていたが一向にやってくる気配はなかった。

「どうせ、あいつ来ないよ」わたしは投げやりぎみに言った。

「ああ、来たら本当の仲間にしてやって、宝を分けてやってもいいのにな」住友が言った。

「富田にも言ったんだよ、加勢すれば宝を分けてやるって」クジラがさらりと言ったが、住友は見逃さなかった。

「おい、ちょっとそれまずいぞ、今日の計画のことは話してないんだろうな。それに宝のことも話したのか?」

「いや、あんまり。縁日行くからこれたら来いっていっただけさ」

「あんまりって、隠し場所なんか言ってないだろうな」

「ああ」クジラが鼻の汗を手で拭きながら言った。

「よし、最初から当てにしてないさ」

「じゃあ、出発だ」

「気勢でも上げるか」わたしたちは小さな声で「エイエイオー」と鬨の声を上げた。

わたしたちはお面を買わなければならなかった。だるまの置物屋と、キーホルダーなどの土産物屋の間にお面屋があった。わたしは一番安い月光仮面のお面を買ってお金を払っていると後ろから肩をたたかれた。振り向くと、林久美子と関順子だった。

「ああ、久美ちゃん、あれ関さんも!」わたしは肝をつぶしていた。

「あら、住友君と鯨岡君も一緒なの?」

「おう、おまえたち二人で来たのか?」住友が粋がっていった。クジラはいかにもまずいなという顔をした。

「そうよ、何でお面なんか買っているの?」

「まあ、いいじゃない、従弟のおみやげだよ」

「なんかウソっぽいけど、それよりじゅんちゃん、このあいだ今度おごるよっていってたよね」

「ああ、ギズの手当してもらったときのことか」

「そうそう、あんみつか、氷イチゴだったよね、でも今日は焼きそばでもおごってもらおうかな。いいでしょ?」久美ちゃんが率直に申し出た。

「いいけど」そう言って住友の方を見ると「だめだ」と声を出さずに口を大きくぱくぱくさせて意思表示していた。

喧嘩の計画は男だけしか知らなかった。林久美子は浴衣を着てきた。関さんは相変わらず柔らかそうにふっくらとしたブラウスとスカートだ。わたしたちはそのまま一緒に歩き始めた。喧嘩とはほど遠い、何とものんきな集団に見えた。「なんで、一緒になっちゃうんだよ」住友がわたしに言った。

「しょうがないじゃないか、ついて来ちゃったんだから」わたしは自分の意志でないことを主張した。

「喧嘩だろ、わすれたのか」

「ああ、わかってる」

通りすがりに金魚スクイとヨーヨーすくいの屋台をのぞいてみたが、連中の姿が見えなかった。

「今日はこないよ、焼きそば食べよう、腹が減ったよ」クジラが言った。

「まだ六時前だぜ、早いよ」

「それより、用意した物はあるような」

「うん、縄とうどん粉に胡椒、神社に隠してある」

「よし」住友がどこかの親分みたいな口調で偉そうに言った。

「何、こそこそ話てんのよ」突然久美ちゃんが会話の中に入ってきた。「あんたたち、またへんなこと考えてんじゃないでしょうね」

「なんのことさ」わたしが訊いた。

「懲りずに、万引きするんじゃないでしょうね」久美ちゃんは健ちゃんから万引き事件のことを聞いて知っていた。

「冗談言うなよ」

「はらへったよ、何か食べようぜ」クジラが繰り返した。

「さんせー」関さんのかわいげな反応でわたしたちは屋台を物色し始めた。

最初に目に入ったのは大判焼き屋だった。小倉案、白あん、クリーム入りなど多くの種類を夫婦で焼いており、たくさんが仕上がってケースに並べられていた。その隣がチョコバナナやジャガイモ焼きなどという得体の知れない屋台が続いた。焼きそば屋は出来上がりのそばを盛っている最中でたいそう混んでいた。子供たちに混じって大人も物欲しそうな顔をして焼きそばのじゅうじゅうする音に聞き入りながら並んでいた。そのとなりのお好み焼きも人気があって行列が出来ていた。ちょうど焼きあがったようで中年のオヤジさんが忙しそうに鉄板上に作ったお好み焼きにソースや青海苔をかけているところだった。焼きそば屋のオヤジの額に丸い汗の粒が光っているのが遠くからでも見えた。キャベツと濃いソースが焼けている、それに紅生姜に鰹節、天かすとすべてのにおいが絡まってお好み焼きに引きつけられていく。

「お好み焼きにしよう」わたしが言った。

「メチャクチャ、混んでるよ」住友は待つのが厭なようだった。

「夜は長いって」

「隣はすいてるぞ」クジラが水飴屋を指さしていった。

どうゆう分けかその隣の水飴屋は道路に水たまりでもあるかのようにぽっかりとあいていおり客がいなかった。だいだい色の模造紙に墨汁で「あんず飴」と書いた手づくりの看板が立っていた。

割り箸を半分の長さにした棒に刺したあんずにとろけた水飴を巻いて氷の台のうえに整然と並べてある。中身はあんずだけではなく桜桃、さくらんぼ、かんみかん、スモモが色鮮やかに置いてあった。前列に並べられた果物の缶詰は外国製のようで、英語で中身の具を説明してあるようだった。売り子のおばさんの前には大きな金ダライのような入れ物があってそこには水飴がたっぷりと入っていた。おばさんは腕に金色のブレスレットをつけ、ふくよかな丸い手でスモモに棒を刺しそして器用に水飴を取って着色料で真っ赤なスモモにくるみ氷の台におく動作を繰り返していた。

わたしは縁日に来ると売っているものよりも、そこの売り子のことを考えてしまう変な癖があった。おばさん若そうだけど三〇代前半なのだろうか、ずいぶんおしゃれしているけれど結婚はしているのだろうか、どうしてこの仕事に就いているのだろうか。そんなことを考えながらずっとその動作に見とれていると、ほかのみんなも集まってきた。おばさんはわたしたちに向かって「ゲームもあるよ、当たればもう一本もらえるよ」そう言うとわたしたちの頭越しに遠くの客に「いらっしゃい、当たればおまけが付くよ!」と大きな声で呼び込みをした。だんだん客が集まりだした。わたしはそろばん塾の帰りに健ちゃんに買ってきてもらう甘酸っぱいスモモを思い出した。

「おばちゃん!スモモひとつ」わたしは勢いよく言って握りしめていたお金をつきだした。

「あいよ!」と言っておばさんはお金を受け取ると、氷の台にあるスモモを刳るんだ水飴を一本取ってわたしに渡し「じゃあ、このゲームやってね」と商品ケースの前においてある円盤のようなゲーム機を指さした。

ゲーム機といっても子供が夏休みの自由研究の宿題で作った木製ルーレットのようなもので、軸をつかんで回すと中の矢印が回転し、円を一六分割ほどしてある何処かに納まる。その中に「はずれ」と「一本」「二本」「三本」の位置があり、矢印がそのどこかに納まるという代物だった。「はずれ」の場所がほとんどで「一本」の当たりは三箇所、「二本」の当たりは二箇所、「三本」の当たりは一箇所しかなかった。わたしはこの手のゲームで当たった試しがない。神様に祈りながら勢い込んで回した。

案の定「はずれ」で追加の飴はもらえなかった。

「坊や残念だね、またどうぞ」おばさんは機嫌良さそうに言った。坊やという言葉に少しこだわっていると「オレもやる」といいながら後ろから住友がわたしの背中を押しながら進み出てきた。やつは飴よりゲームの方に興味があるらしい、根っからのギャンブラーなのだ。住友はミカンを注文しルーレットに向かった。

「じゅん、こうゆうのはおもいっきりやらなくちゃだめなんだ。いいかよく見てろよ」自分はプロだとも言いたげに片手に水飴を持ちながらルーレットの木の軸をいじくり回した。

「関係ないよ、確率が悪すぎるんだ」わたしは言い返した。

彼が思いっきり回すと中の矢印はカラカラと乾いた音を立てて回り、スピードを徐々に緩めた後、青く塗られた地の色に白抜きで「三本」と書かれた場所に固定された。

「ヒヤッホー!」住友が叫んだ。

「やったね兄ちゃん、三本おまけ、何にしますか」おばさんが負けずに大声で叫んだ。「久美ちゃん、何にする?」住友が林久美子に向き直り注文を取った。

「いいの?」

「何でもたのめよ」

「じゃあ、わたしもスモモ」久美ちゃんが言った。

「関さんは?」

「じゃあ、ミカンお願い」関さんが幼児声で言った。

「クジラ、おまえもたのめよ」

「いいのかい、兄貴」いつの間にか住友は兄貴分になっていた。

水飴屋のおばさんが何で住友を「兄ちゃん」と呼びわたしを「坊や」と呼んだのかを考えていた。おばさんの三〇代の人生なんてもうどうでもよく、わたしはお好み焼きをやめて水飴屋を選んだことに後悔し始めていた。

「ありがと、住友君」久美ちゃんと関さんが水飴をなめながら言った。

「いいってことよ」住友は上機嫌だった。

わたしたちは水飴を食べながら、再び金魚スクイの屋台の方に向かった。みなスモモの着色料で舌と唇が真っ赤になっていた。久美ちゃんは赤く染まった唇が浴衣姿によく似合い、中学生か高校生のように見えた。水飴では腹は膨れない、わたしたちは次に何かを食べようと屋台を探索しながらぶらぶら歩いていた。

「そろそろ別行動の方がいいんじゃないか」わたしは住友にアドバイスした。久美ちゃんたちは一緒にいると目障りだし、計画がばれそうな予感がした。それにこのままだと計画は実行されずに「復讐の縁日」がただの楽しい縁日に変貌してしまう。住友も承知していて「そうだな」と応じた。

「あのー、久美ちゃん、じゃあオレたち駅の方に行くから」住友が言った。

「えー、お好み焼きおごってくれないの?」久美ちゃんが甘えるように言った。

「もう空いてきたかもね」関さんも一緒に行きたそうだった。

「こんどね」わたしが幼児を宥めるように言った。

「もう、帰るの?」

「いや、そうじゃないけど」

「ふーん変なの、じゃあまたあとでね」久美ちゃんが不思議そうな顔をした後ニッコリしながら諦めて言った。

久美ちゃんたちはお好み焼きの屋台の方に向かい、わたしたちは金魚スクイ屋の方に向かった。

そのとき突然、住友が「おい、やつらだ」押し殺したような声で言った。「大勢いるぞ」クジラが付け加えた。わたしはぎくりとして今までの空腹感が吹っ飛んでしまった。やはりその日は普段の縁日とは違うのだと改めて思った。

奴らは綿飴を食べながら神社の方に向かっていた。神社の近くには金魚スクイがある。わたしたちが立てた行動計画が現実味を帯びてきた。

豊島小学校の連中は、いつもの四人組に加えて後数人が来ていた。

「まずいよ、大人数だ。今日はやめて遊んで帰ろう」クジラが弱気になってきた。

「うーむ、そうだな」わたしも同調しそうになった。

「冗談じゃない。今日じゃなきゃ、いつやるんだよ?」住友が怒りだした。

わたしたちは彼らを気が付かれないように尾行を始めた。

小川と仲間たちは綿飴を食べ終わると、金魚スクイ屋の前で足を止めた。予定通りの行動になるのだろうか。

「オレ、金魚スクイやるから、おまえたちどうする?」小川が言った。

「いっしょにやろう」いつもの四人が行動をともにした。いつも見ない他の連中は別行動になった。

「おいチャンスだ、人数が少なくなったぞ。やめる理由はどこにもない」住友が言った。

「よし、決行だ」わたしも追従した。

「クジラ、神社で用意していろ」住友が命令した。

「おう」と言ってクジラは神社に向かって駈けだした。

彼らは前の子供たちが終わるのを後ろで待っていた。しばらくして彼らの番になり、針金と薄い紙で作ってあるワッカの金魚スクイを手に持ち小川が桶の前に進み出た。

「おい、始めるぞ」住友が言った。

小川が金魚スクイをまさに始めようと言うところだ。わたしは月光仮面のお面をかぶった。住友はひょっとこのお面だ。

「チャンス到来だな」わたしがつぶやいた。

「じゃあ、おまえやれよ」住友がわたしに言った。

「まさか、いいだしっぺがやれよ」わたしは反論した。

「言ってみただけだよ、心配するな」住友が実行犯になることになった。

住友は金魚スクイをやるようなふりをして小川の後ろに近づいた。小川はつま先を立ててしゃがみ込み、金魚スクイに夢中になっている。住友は無防備な小川のお尻の下に、そっと手を入れて持ち上げそして前へ強く押した。

「うわー!」小川は叫び声をあげ、金魚スクイの桶に頭を突っ込んだ。大きい体をそのまま倒れるようにあずけたので、四角い桶が大きく揺れ中の水と金魚がこぼれ出した。驚いてのけぞった客が後ろの客を押したため数人が将棋倒しになった。ヤツの仲間や同時に金魚スクイを楽しんでいた子供たちも水と金魚をかぶりあたりは大騒ぎになった。桶にあった半分以上の金魚が道にばらまかれた。住友とわたしたちは騒ぎに会わせるようにして後ずさりしてその場の様子を眺めていた。まさに痛快、大成功だ。異常な騒ぎに周辺にはいつの間にか人だかりが出来始めていた。わたしたちは人だかりに阻まれ外に出られなくなった。

「金魚を桶に戻せ!」誰かが叫んだ。

「バケツを持って来い!」「桶に水を足せ」

「金魚を踏むな!」あちこちから怒号が飛んだ。

「おい、ぼうず何やってるんだ。きおつけろ!」金魚屋のおやじが小川に文句を言っている。

「後ろから押されたんだよ」小川が言い訳をしながら金魚を拾っては桶に戻していた。周りの子供たちも面白がってはねる金魚とつかんでは桶に投げ込んでいた。

小川は金魚を拾う手を止めて、後ろを振り返りった。ひょっとこのお面をつけた住友うぃみると「おまえ、お面取れよ!」とすごんだ。

「関係ないだろ!」住山が拒否したが完全に怪しまれていた。

「てめえ押したな」小川が言った。

住友は少しビビリながら「ちがわい」と言ったあと「勝手に転んでなにいってんだよ」と言い返した。

「お面の奴ら小川君の後ろにいたぞ」黒縁メガネのチビが叫んだ。

「だからどうした」お面をつけていたので強気にわたしが言った。

「てめえらちょっとこいよ」長谷川が言った。

「いくぞ!」住友が叫んで、それを合図に人混みを無理矢理かきわけで人だかりの外へ出ようとした。

「このヤロー、ちょっと待て!」小川は興奮して息を切らしていた。

わたしと住友はその言葉を無視して駈けだした。追いかけてくるかと思ったら彼らは躊躇していた。それを見て住友は挑発的に「ばかやろー、金魚代弁償しとけ!」と言い放った。それを聞いて彼らは、わたしたちが犯人であることを確信したのか、ものすごい勢いで追跡を始めた。

「きたぞ、神社だ」わたしと住友は猛スピードで神社に向かって走り出した。

空き地を通って突き当たりを左に迂り、神社の階段を上がって、反対の出口に抜ける神社の庭の狭い道に向かった。彼らも懸命に追いかけてきた。小川を先頭に三人ぐらいの様子だ。

「いいぞ、作戦通りだ」

細い抜け道に来たところで、なわとびを用意しているはずのクジラに声をかけた。

「来たぞ、すぐ後ろだ」そう叫んでわたしたちはすぐそばの茂みに飛び込み、用意してあった、水の入ったバケツを住友が小麦粉入りのバケツをわたしが手にとって身構えた。クジラが茂みの中に待機していた。クジラは準備のとき楽しそうに木の枝にロープを巻き付け、高さを調節したりして、引っ張るタイミングを練習していた。失敗するはずはなかった。

「クジラ頼むぞ」わたしは声を掛けた。

「まかしとき」クジラが答え思いっきり引っ張った。ロープは地上二〇センチくらいのところにピンと張った。そしてその瞬間彼らが駆け込んで来た。最初に小川が縄に足を取られてつまずき、後からかけてきた奴らは次々とその上に倒れ込んで行った。そのとき、住友が用意してあったバケツの水をかけ、そのあとわたしがもう一つのバケツいっぱい入っていいた小麦粉を彼らにまぶした。小麦粉は長い間おいておいたせいか固まって放り出された。しかし彼らに命中すると、塊がいっぺんに砕け、白い破片となり、最後は粉になって巻き散らかれた。周辺は白い水蒸気があがったような状態になった。最後の仕上げにクジラが胡椒の粉を大量にばらまいた。

「なんだ、これは!」

「プハー、のどがつまる」彼らは咳き込みながら涙を流しているようだった。

思いがけない攻撃で、先頭の小川は面くらい、小麦粉で目が見えずその場にうずくまった。頭を上げるとおもしろうように真っ白で目と鼻の穴の位置だけが確認できる顔になっていた。

「天ぷらを揚げる用意が出来たぜ」住友が勝ち誇ったように言った。

「さあ、引き上げるぞ」住友が逃走の指示を出した。胡椒の散布は良いアイディアではあったが、自分たちにもかなり被害があった。わたしもくしゃみと咳で顔が腫れ上がるようだったがお面が役に立ち大きな被害最小限にくい止められたた。

小麦粉と胡椒の攻撃は彼らを完全に戦闘不能にするべきはずであった。ところが小川は一瞬怯んだもののすぐに立ち上がり追っ手を捜し始めた。

「このやろー、どこだ、出てこい」小川とその仲間たちは次々に立ち上がると体勢を立て直して再び追いかけようとした。しかし彼らは方向感覚を失い神社の周辺をうろうろするばかりだった。わたしたちは彼らに見つからないように茂みの中を横切り境内から電車通りを抜け再び縁日の雑踏の中に紛れ込んだ。

「もう、大丈夫だろう」お面をはずしながらわたしが言った。住友もお面を取ったが胡椒の粉を吸ったせいか目が真っ赤に腫れ上がっていた。

「危なかったけど、なんとか成功だな」

「バケツとロープは明日取りに来よう」

「顔は割れてないはずだ」

「あれ、クジラは?」

「捕まったか?」

わたしと住友が思案しているとクジラのカエルのお面が遠くに見えた。何とか逃げ切れたようだ。

「あいつ何やってんだ、早くお面はずせってーのに」住友が舌打ちした。

最後は手間取ったが、想像以上の成功にわたしたちはその日の成果にとても満足していた。いままでの胸のつかえがなくなった。

その日は意気揚々と帰ったが、本当はここからが事件の始まりだった。

第六章          空蝉橋の乱闘

第一節          宝盗まれる    20水

その日は一学期の終業式だった。待ち望んでいた夏休みの始まりで気持ちは高ぶっていた。そんなそぶりを見せていないようなやつも多い。「学校があるほうが退屈しない」などと信じられないことを言う輩もいる。わたしにとっては一年間で最高に楽しい瞬間だった。一学期の成績なんてどうでもいい。ふつう程度の勉強すれば問題ない。気になるのは通信簿に書かれた担任からの一言だったが、そんなことは夏休みが始まろうとしている有り余る自由で膨大な時間の前にはどうでもいいことだった。

手始めにその日は健ちゃんの家で泊まり込むことにしていた。母親は反対したが健ちゃんの父親からの直接のお願いもあり外泊が可能になった。健ちゃんの父親は一週間の出張で、監視役を兼ねた遊び相手としてわたしが必要だったのだ。もろもろは近くに嫁いでいる姉の珠恵さんが面倒をみてくれる。夕食の準備をしたあと珠恵さんは帰る。今晩はわたしが泊まることになったので二人分の夕食を用意しておいてくれているはずだ。健ちゃん宅での夕食の前に、みんなと午後に空蝉橋で遊ぶ約束をしていた。

「崖崩れってそんなにひどかったの?」久美ちゃんが聞いた。

「ああ、応急工事をしただけで、まだそのままだからいい遊び場になってるんだ」

その日は終業式の後、橋の遊び場を見せようと林久美子にも声をかけて連れてきていた。

「たのしみね。ほかに誰か遊びに来るの?」

「うん、住友と、クジラが行ってると思う」

「いつものメンバーか。仲がいいのね」久美ちゃんが退屈そうに言った。

「それに、ものすごい宝物もある」気がとがめたが久美ちゃんの気を引くため秘密を漏らしてしまった。

「宝物って?」

「ああ、ブリキ缶に遊び道具がいっぱいさ」

「ブリキ缶に?」

「だから、この夏休みはここでどんどん遊ぼうよ。崖の修復が本格的に始まったらそれまでだけどね」わたしは得意げに言った。

「つかの間の楽しみってっわけね」

「夏休みは明日から、長いんだ。それに工事はなかなか始まりそうもないしいっぱい遊べるよ」

「今年の夏休みは、短いかも」

「なんで?この猛暑なのに」

「ははは、そうじゃなくて」久美ちゃんは思わせぶりに笑いながら言った。区民プールから右に折れると崖崩れ現場が見えてきた。

「だから、どうして」

「忙しくなりそうだし」久美ちゃんが言いかけたとき、クジラが息を切らして崖の下から重力に反して駆け上がってきた。足の回転は忙しいのになかなか近づいて来ない。

「おい、全部なくなってる、おまえどこかに移したのか!」クジラは相当慌てていた。久美ちゃんの存在も駈けてきたときに野球帽を風で飛ばされたことも気がつかなかったようだった。

「なんのことだよ」

「だから、オレたちの宝のことだよ、何処か他に隠したとか」

「いや、なにもしてない」

「なんてこった!」クジラは目を丸くした後、眉間にしわを寄せそして肩を落とした。

「住友は?」わたしは聞いた。

「下にいるよ、橋の下の隠し場所に」

「久美ちゃん、ここで待って、見てくる」そう言って、わたしは滑らないように腰を落として注意深く崖を降りた。クジラも後からついてきた。住友が顔をしわくちゃにし生活指導の先生のように腰に手を当て考え込んでいた。

「おう、大変なことになってるよ」わたしを見つけると住友が言った。

「なくなってるって、ブリキ缶ごと、全部?」

「じゅん、おまえ、隠してないような」疑り深く念を押した。

わたしたちが掘った縦穴の中は空だった、それにゴミが入れられている。おまけに水か小便がかけられたような後がある。

「まだ、濡れている、犯人は近くにいるはずだ」刑事のような口調で住友が言った。

「どうする」

「探そう」

「どうやって」

「この場所はオレたちしか知らないはずだよな」

「ああ、でも豊島小学校の奴らは昨日も来てたし」

「探し出したのかもしれない」

「奴らに決まっている」わたしたちはたぶん同じことを考えていた。

第二節          橋での喧嘩    20水

わたしたちが義憤に駆られて、犯人探しに出かけようと立ち上がり橋の上を見ると豊島小学校の連中が四、五人が柵にひじをつきながらこちらを見下ろしてていた。ニヤニヤしているやつもいる。

「あいつら」住友はうなるように言った。

彼らは楽しげにわたしたちがあわてて右往左往しているのを見物していた。犯人は奴らに違いないと確信した。ともかく、わたしたちは線路から崖を息を切らしながら登った。そこでわたしは信じられない光景を見た。富田がいた。富田が豊島小学校の連中と一緒だった。わたしたちを見て静かに笑っていた。

「おい住友、見たか?」

「ああ、あいつが教えたんだ」

「こすいやつだ」

「富田のヤロー許せない、ぶっ殺してやる」住友が一番興奮していた。

住友が最初に上までたどり着き、橋の欄干にたむろしている奴らに向かった。

「おい、おまえら話がある、こっちに来いよ」住友が興奮しながら小川に声をかけた。わたしも住友に続いた。そしてクジラが最後に上がってきた。

「なんか文句あるのかい、おにいちゃん」一番体のでかい小川が橋から崖上の方まで降りてきた。

「富田、出てこい!」住友が言った。

「卑怯だぞ、おまえのやったこと言って見ろ」わたしも応酬した。

「汚いやつだ、出て来いよ」クジラも思いっきり大きな声を振り絞るようにして叫んだ。

富田は薄笑いを浮かべて前に出た。

「おう、みなさん、段ボール滑りの調子はどうかな?」

「ふざけるなよ、オレたちの隠したもの何処にやったんだよ」

「何のことだかぜんぜんわからないよ」富田が小川の方を向いていった。

「おまえたち人のものかすめようなんて、泥棒よりたち悪いぞ」小川が言った。

「ともかく、富田と話がある、こっちへ渡せよ」

「どうする、富田?」小川が富田に聞いた。

「あいつらとは遊びたくない」

「やだってよ」

「てめーらふざけんなよ、盗んだもの全部返せよ」ついに住友がぶち切れた。

「おまえらこそ、くすねたもの出せよ。万年筆、時計、何処やたんだよ」富田が言った。

「汚い奴らだ。盗んだやつ出てこい」わたしはありったけの声で叫んだ。

「盗んだやつ出ろってよ」

「何のことだかさっぱりわからねえ」彼らは口々にはぐらかすような口調で絡んできた。

「うるせーな、テメーらやる気だな」住友が言い、殴りかかろうとして一歩前進したとき、グループのうしろから中学生の深沢が出てきた。わたしが殴られたとき居たやつだ。あいつが出てきたら絶対かなわないと思った。

「てめえら、なにぐずぐずいってんだ!早くおうちにかえってお母ちゃんのオッパイでも吸ってろ」甲高いが迫力のある声で深沢が言った。

「なんだよ、よけいなやつはひっこんでろ」住友はヤツの恐ろしさを知らないのだ。中学生に大きな口を利いてしまった。

「何もたもたしてるんだ、やるならかかって来い」

「やらないなら早く帰りな」次々に挑発してきた。

住友は、わたしに小声で「健ちゃんに電話して来てもらえ」と耳打ちした。 わたしは何も返事せず、急いで近くの電話ボックスに向かってかけだした。電話ボックスの前に来てポケットに十円玉がないのに気が付いた。後ろを振り返ると久美ちゃんがいた。

「どうしたの、じゅんちゃん」

「うん、ちょっと」

「喧嘩になりそうなの?」

「うん、久美ちゃん十円玉持ってる?」

「あるわよ、けどじゅんちゃん聞いてよ」そう言いながら財布から十円玉を一つ取り出してわたしに渡してくれた。

「ありがとう」わたしは公衆電話ボックスのドアを開いた。

健ちゃんの家の電話番号を何とか思い出し、誰かが異様な力でたたいて楕円に変形しているダイヤルを急いで回した。電話機が壊れていないことと健ちゃんが在宅していることを祈った。健ちゃんは正月のたこ揚げで糸がからまって豊島小学校の連中と喧嘩したときも勝ったことがある。応援にきてくれれば百人力だ。宝物も取り返してくれるだろう。息が切れていて苦しかった。どきどきしながら電話に反応があるのを待った。コール音が数回あったがなかなか応答がない。電話番号が違っていたのだろうか。諦めようとした瞬間、女の声が応答した。

「はい、福井です」姉の珠恵さんに違いなかった。

「木村潤ですけど、健ちゃんいますか」いつもとは違う早口で言った。

「あら、じゅんちゃん、今晩来るのよね、カレーライスを作っておいたからね。ご飯もあるからかけて食べるだけになってるわよ」いつものわたしの体を全体に包むような優しくこもった声だった。大好物のカレーライスだったが、そんな珠恵さんの言葉がまどろっこしく思った。わたしにとって一番の関心時は、健ちゃんが居るのか居ないのかだ。それだけを応えてくれればいい。続けて珠恵さんが話そうとするのを遮って「すいません、健ちゃんお願いします」わたしはぶっきらぼうに言った。珠恵さんの夕食の話に反応する余裕はなかった。

「ちょっとまってね」珠恵さんが健ちゃんを呼ぶ声が電話口にも聞こえた。「よかった、家にいるんだ」ほっとしたけれど健ちゃんが電話口にでるまでが数時間に感じられた。

「おう、なにしてるの」健ちゃんの声はわたしを勇気百倍にさせた。

「豊島小学校の奴らと喧嘩になりそうなんだ、すぐ来てよ」

「よくやるよ」

「中学生もいるんだ、奴ら泥棒なんだ」

「カツアゲか?」

「まあ、そんなとこ」

「場所は?」

「イッセンバシ」

「まってろ、すぐ行く」

電話を切った後ふりかえると、久美ちゃんが心配そうにわたしを見ていた。

「十円、明日返すから」

「そんなのいいけど、宝物盗まれたってどうゆうこと?」

「久美ちゃん、今日の遊びは中止だ。ごめん、うちに帰っててくれ」

「そんな」

「じゃあ、オレ行くから」

「ちょっとそんなのないでしょ」

「ともかく今日は家に帰ってよ」

「なによ。人の話聞かないんだから」

久美ちゃんの不満げな声を聞き流してわたしは現場に急いだ。わたしが戻ると話し合いはこじれているのはすぐわかった。健ちゃんがここまで来るのにかけだしてきて五分、自転車で三分と言うところだろうか。それまでは何とか持ちこたえなければとわたしは思った。

「言いがかりをつけるなよ。なんか証拠があるのかよ」

「盗んだもの早く出せよ」

「知らねえていってんだろ」恫喝して小川が言った。

「それよりこないだは世話になったなあ」

「なんのことさ」

「うどんこのことだよ」ランニング姿のちびが言った。

「お面なんかかぶりやがって、卑怯なやろうどもだ、もっと正々堂々とやったらどうだ」小川がすごんだ。

「オレたち縁日に行ってないよ」クジラが言った

「縁日?何で縁日の喧嘩のこと知ってるんだ」

まずい、クジラのやつ墓穴を掘った、馬鹿だなとわたしは思った。

「うわさで聞いたし」クジラが反論したが明らかに形勢は不利だった。

「それこそ証拠がないよ」住友も続いて反論したが、ますます向こうのペースにはまっていた。

クジラは小川に胸ぐらを捕まれていた。住友は中学生にこづかれそうになっていた。

「ちょちょっと、話し合おうぜ」時間稼ぎにわたしが言った。

「何だおまえ、また来たのか、さっき逃げたくせに」

「逃げてなんかいないよ。なんだよ。その言いぐさは!」わたしも頭に血が上ってきた、もう話し合いの余地はなかった。

そのとき健ちゃんが駆けつけてきた。

「ああ、健ちゃん」

「何があったんだ、小学生をいじめるのは良くないな」と余裕のある低い声で言いながら近づいてきた。背は向こうの中学生よりも高かった。胸幅だって広い。

「オレに任せろ、大将は誰だ」健ちゃんが訊いた。

「あの、ひげ面の中学生のヤツだよ」わたしが深沢の方を指して言った。

「何しに来たんだ?よけいなやつは引っ込んでろ」深沢が顔に凄みをきかせながら怒鳴った。

「おまえが、リーダーか?取った物返してやれよ。どーせたいしたもんじゃないんだろ」

「こいつらが盗ったんだよ」クジラが叫んだ。

「だから知らねって、証拠もないくせに」小川が深沢の後ろから顔を出した。

「富田に聞け、やつが知ってるはずだ、裏切りやがって」

「裏切るも何もないさ。いっとくけどオレ、一度もおまえたちの仲間になったことないぞ」富田はふてぶてしかった。

「それより縁日の落とし前つけてくれよ」

「てめえたちが縁日にいたのはわかってんだよ」長谷川が言った。

「とったもの返せよ」クジラはそれには答えず同じ言葉を繰り返した。

第三節          事故発生     20水

話し合いはつかなかった。

「おまえの親父いま刑務所だってな」いきなり黒縁メガネのチビがクジラに向かって切り出した。そして後ろに引っ込んだ。

「大塚の高利貸し刺して捕まったんだって?」長谷川が付け加えた。

「こんど、盗んだ金で家建て直して御殿にするらしいぜ」小川も言った。

「てめえら、かってなこというな」住友がクジラをかばった。

「話をそらすなよ」わたしも応戦した。富田のヤツが吹聴したに違いない。

「刑務所ヤロウ、何とか言って見ろ!」小川がクジラに向かって挑発した。

クジラの鼻に汗がにじみ、顔はどす黒く、そして赤味が増していった。怒りを通り越し驚愕しながら手をこぶしに握って震えている。

突然クジラが叫んだ。「おまえら、きたねーぞ!」そう言って小川に体当たりした。そして頭を垂直に勢いよく持ち上げ、相手の顎に激しい頭突きを食らわした。小川はもんどり打って倒れた。口の中を切ったのだろうか血が出ていた。続けて長谷川に捨て身で体当たりした。

「おまえら、ちょっとまて」健ちゃんが叫んだけれどもう戦いは始まってしまった。小川が立ち上がり今度はクジラのことを思いきり蹴り上げた。クジラは「ぐえ」と低い悲鳴のような声を出してその場にうずくまった。

クジラを助け起こそうとわたしが近づくと、今度は長谷川がげんこつを作ってわたしに向かってきた。わたしはとっさに後ずさって落ちていたこぶし大の石を拾った。長谷川の顔めがけて投げつけると石は逸れて後ろにいた深沢に目の上に当たった。薄くて消えそうな眉毛の上から血が吹き出た。それを見た長谷川はひるんで数歩下がり深沢を気遣った。深沢は目に右手を額に当てた。手にはべっとりと血が張り付いた。指の間から流血の後がくっきりと見えた。

「やっちまえ」深沢が般若の形相で叫んだ。彼らは腰を低くして戦闘態勢に入った。わたしたちも一斉に喧嘩の構えをした。わたしは周辺の石をまた拾い身構えた。

そのとき中学生の深沢がポケットに左手を突っ込んだと思うと光る物を取り出した。ナイフだった。そしてゆっくりと右手に持ち替えていつでも相手を斬りつける勢いのように見えた。

「石を投げたヤツ出てこい」と深沢が言った。わたしは全身で身震いした。

ナイフの刃は十数センチくらいあっただろうか鈍く光っていた。わたしたちは予想外の展開に足が凍り付いた。そして助けを求めるように健ちゃんの方を振り返った。健ちゃんはわたしたちに下がっているように手で合図した。

「本当にやる気なんだな」健ちゃんが落ち着いた低い声で言った。その声でわたしたちも少し安心した。

「ああ、切り刻んでやる」深沢が言うと同時にナイフを健ちゃんに向けてちらつかせた。そして素早い動作で健ちゃんに斬りつけてきた。健ちゃんが振り払ったときナイフの刃の先端が二の腕をかすめた。一直線に血がにじんだのが見えた。

「いてっ!」健ちゃんがかすかに聞こえる声でつぶやいたのが聞こえた。わたしはやつが本気だと思った。まずいことになったことを改めて感じた。深沢の顔は真っ赤に充血して、額からはまだ血が固まらずに滴っていた。深沢は見るからに偏執的で怒ると何をするかわからない性格のようだった。この喧嘩は収まりがつかないと思った。

そしてその後とても信じられない光景が展開したのだ。健ちゃんもお尻のポケットからジャックナイフを取り出した。刃渡りは深沢のよりも短かったが、刃はよく手入れされているようでより輝いていた。

「よし、やろうぜ」

「健ちゃん!」わたしは止めるのか応援するのか何とも曖昧な声で呼びかけた。

「じゅん、おまえたちはひっこんでろ」健ちゃんもこれまでに見たこともない形相に変わっていた。たぶん、ナイフの喧嘩は見たこと無いから健ちゃんだって初めてなのじゃないかと思った。わたしの不安は広がった。

ナイフの二人はしばらく動かなかった。最初に動いたのは深沢だった。ナイフを突き出すが腰が引けていて健ちゃんに届かない。わたしはアメリカ映画の中に自分が居るように感じた。ジェームス・ディーンが健ちゃんで相手が非行少年グループだ。健ちゃんは中学生だけれども髪をリーゼントにしてアメリカの若者を気取っていた。長い髪はいつも持ち歩いている櫛で流れるように分けられ映画の雰囲気にもあって居た。「理由なき反抗」の喧嘩は拮抗していた。でもこの喧嘩は健ちゃんの方が圧倒的に有利だった。健ちゃんは落ち着いて相手の動きを見ていた。深沢が思いきり顔をめがけて切りつけてきたが健ちゃんは軽いフットワークでこれをかわした。相手が攻めあぐねているのを見ると、一度相手の顔を切りつけるフェイントを見せて、相手が顔を背けたスキに健ちゃんのナイフは深沢の足をねらい、深沢の太股にナイフが浅く刺さった。深沢はよろけて少し怯んだ。

「ほれ、どうした?今のは手加減したんだぞ」余裕を持った健ちゃんの声が聞こえた。深沢は完全にビビッている。それを見てこのケンカは収まりそうだとわたしは安堵しかけた。クジラはうずくまっていたが、それをみると急に飛びだして深沢に体当たりした。

「やめろ!」健ちゃんが言ったが、クジラは聞かなかった。

「ふざけやがって、ふざけやがって!」クジラは何度も同じことをを叫びながら、次々に彼らに体当たりと頭突きをしていった。相手から何度も殴られても動じなかった。次の瞬間、深沢からナイフを奪い取ると誰からともなく斬りかかっていった。完全にクジラは狂っていた。そして深沢に向かってナイフを突き立てたまま体当たりをした。ナイフは深沢の腹に刺さり「ぐえっ」と言う嗚咽にも似た悲鳴が聞こえた。深沢はうつぶせに道路に倒れた。クジラは小川にも体当たりして、すもうの押し出しのように崖に向かって押したまま突き進んでいった。二人はそのまま崖の上で坂に足を取られ一気に下まで落ちていった。

そのあとは誰彼かまわず大乱闘になり、みな斜面を転びながら落ちていき相乱れの殴り合いになった。わたしも崖を駆け下りるというか、転び落ちながら乱闘に加わった。

第四節          それ逃げろ     20水

崖の大騒ぎと、転落した誰かの悲鳴で、駅員が我々の存在に気がついた。いつも彼らとはいたちごっこで捕まらないのだが、子供の人数も多かったせいか、その日は大勢がこちらに向かってきた。わたしは「まずい」と思った。喧嘩は中止にしてここは逃げ出すしかない。駅員に捕まったら面倒なことになる。

「逃げろ」誰かが叫んだ。

「ヤバイ、バラバラに逃げよう」

わたしたちは、みなてんでの方向に蹴散らされるように逃げた。住友は崖の方へ、クジラは駅のホームへ、健ちゃんとわたしは貨物線路の方へ逃げた。崖は滑りやすいから、落ちたらすぐに捕まってしまう。山手線は時間本数が多いが、貨物線路なら列車はあまり通らない。逃げ出す直前振り返ると駅員達は数十人がおり、崖と線路方面と手分けをしてわたしたちを捕まえようとしていた。崖方向は逃げた人数が多いせいかもう多くの駅員がそちらの方に振り向けられていた。貨物線路の方は数人が追ってきたようだ。数十メートルそこそこまで近づいていた。駅員はわたしたちに向かって

「ばか、やめろー!そっちは危ないぞー」

「電車に轢かれるぞ!」と叫んでいた。

「嚇かしやがって、貨物はもう来ない、さっき通ったばっかりだ」とわたしは思った。

夕暮れが近づき日が沈みかけていた。前を走る健ちゃんの長い頭の影をふんづけながら懸命に走った。マラソンを一生走る気持ちで全力で走り続けた。いつも大塚駅の都電の道を遊び場にしてきたので、線路の枕木の上を走るのは得意だった。しかしその時は勝手が違ってうまく走れない。枕木は意地悪に不規則で歩幅があわず砂利の上ばかりを走っている。薄っぺらな運動靴では足の裏が痛くなった。急いで間隔の広い枕木の間を飛び越そうとして転倒した。右膝から血が滲んでた。立ち上がって前を見ると、健ちゃんの頭の影が遠のいていくのが分かった。健ちゃんは確実に枕木の上を三段跳び競技の選手のように足を延ばして飛びながら軽快に走っている。健ちゃんとの距離は開く一方だった。膝がじんじん痛んだ。「もう走れない」と思い、捕まる覚悟をしてスピードを緩め、後ろを振り向いた。駅員達はいなかった。かわりに、林久美子が駆け足でややはなれたところまでついてきていた。「え、なんで久美ちゃんが」彼女は橋の上にいたはずだ。

「じゅんちゃん、待ってよ」久美ちゃんが泣きそうな声でわたしを呼んだ。

「なんでこんなところに」

「だって、ごめん」久美ちゃんは何か言いたそうだったが、言葉になっていなかった。

「いいから走ろう」健ちゃんに追いつかなくてはとわたしは焦った。

線路は大きく左にカーブしていた。後ろの方を振り返ると、もう大塚駅のホームは見えなくなっていた。前方には、池袋駅が見えてきていた。ずいぶん走ったのだ。レールは鋭く光っていて直線で駅までまっすぐに延びるラインだった。そのとき鉄道の線路はその上に立って見るのが最も美しいと思った。表面の輝きと対照的に側が錆びた茶色のH字鋼、それを支える枕木とさびた鉄粉を帯びた砂利、その端々から生長する雑草類、すべてが見ていて完璧だと思った。わたしたちが逃げた線路は貨物用で普段はあまり多く電車は通過しなかった。それでも電車来たらどうしようという不安があった。しかし、それは的中しそれを最初に風で感じた。次に音と線路のわずかな振動でそれは現実だと感じた。振り向いたとき電車は見えなかったが、久美ちゃんと目が合った。振動に会わせるように揺れる視線はこれから来るかもしれない貨物列車を暗示していた。健ちゃんは線路に耳をつけて電車の音を聞いていた。

「じゅん!貨物がくるぞ!」

「でも、そんなはずは。さっき通ったばかりだし」

「さっき通ったのと反対方向の貨物列車のお出ましだ」

「むこうの線路に移ろう」わたしは叫んだ。

「だめだ」

「どうして?」

「運転手に見つかるとめんどうだ、側溝に飛び込め」健ちゃんが言った。

線路に沿ってある側溝はわたしたちがいつも「ザリガニ」を捕っている泥水の小排水路だった。後ろを振り向くと貨物列車がかなり近くにこちらに向かって走ってくるのが見えてきていた。

「久美ちゃん、こっちだ」手を引っ張って線路脇に促した。

「でも、そこドブだよ」久美ちゃんが嫌がっているようだった。

「轢かれるよ、早く」貨物は迫ってきていた、音も振動もさっきの数十倍以上に感じていた。健ちゃんが最初に側溝に飛び込んだ。わたしも追いついて同じ場所に身を隠した。続いて久美ちゃんも飛び込んできた。ぬるぬるして気持ちの悪い臭いがする。吐き気のするような膝までの深さの泥水だった。貨物列車の車輪音は確実に近づいて、やがてわたしたちの目の上を轟音をたててがちゃがちゃと金属音を響かせながら走っていった。わたしたちの周辺が上下に規則正しく揺れ小さな小石がどび散ったりするのが目の前に見えた。久美ちゃんは顔を下に向けて耳をふさいでいた。

「迫力だよなあ、こんな近くで見るの初めてだよ」

となりで健ちゃんはいつものように貨車の数を勘定していた。

「七〇台を越えた、最高に長いぞ今日は」

余裕の健ちゃんを見て少し安堵感がわいてきた。

わたしも負けずに余裕を見せるつもりで「ここ、ザリガニがすごくいるよ」と言った。事実。足やおしりのへんには何か生き物が動いていく感触がした。

「そんなものどうだっていい」健ちゃんが不機嫌そうに言った。自分は貨物の数を数えていたくせにと思った。

貨物列車が通り抜けた後もわたしたちはしばらく動かないで、側溝にじっとしていた。あたりは虫の声以外は押しだまたように静かだった。まわりは日が落ちてうっすらと暗くなっていた。

「追っ手は来ないようだ、いくぞ」健ちゃんが言いながら側溝から立ち上がった。側溝の泥水で身体はすっかり真っ黒だった。洋服はもちろん、手で顔をこすったりするものだから墨を塗ったように黒くて、最前線の兵士のようだった。

「何で女がいるんだよ」

「久美ちゃんだよ」

「なんだ、久美ちゃんか。真っ黒で判らないよ」健ちゃんが顔をこすりながら言った。

「崖の遊び場を見せにつれてきてこんなことになっちゃって。久美ちゃん、ごめんな」

「いいのよ。でもこの臭い何とかならないの」

「でも、久美ちゃんどうしてここにいるの?」わたしは素朴に訊いた。

「あら、失礼ね。だって、上で見ているわけに行かないじゃない、応援にしたまで降りていったのよ」

「でも喧嘩だし」

「気に入った、いい子だ」健ちゃんが言った。

「誰も追ってこないみたいだ、線路から出よう」

駅の近くでは山手線と貨物線の線路は同じ平面を走っていたが、ここまでくると、いつの間にか数メートルの上下の段差が出来ていた。わたし達の居た貨物線は上に、山手線は崖下になっていた。そして、どちらの線路も周辺はずっと両側が高い石垣で遮断されておりいつまで立っても道路にはでられなかった。どおいうわけか山手線は電車が停滞していた。事故でもあったのだろうかと思った。

「もうすぐ池袋の大踏切に出るはずだ。そこまで行けば線路から外にでられる」健ちゃんが言った。

線路は幾分左にカーブしており幾分上り坂になっていた。十分間以上も駆けていただろうか、わたしの足と腰は、がくがくになっていた。すりむいた右膝がひりひりしていた。もう一度走り出しかけた時、健ちゃんが言った。

「踏切はやばい、きっと待ち伏せしているはずだ。壁を登ろう」

「どうやって、五メートル以上はあるよ。」

「もっと低い場所を探すんだ」

「どっかに梯子がついてるとこ見たぞないかい」

「あれば楽だけど、ともかく行こう」

しかしいくら先に進んでも、壁は高くなるばかりだった。結局飛び込んだ場所の石垣の壁が一番低く斜面も緩やかなようだった。わたしたちはそこまで戻り斜面をはいつくばるように登った。わたしが一番先に登り、久美ちゃんは健ちゃんにお尻を押されながら登った。

道路まで上がり、ガードレールに捕まってわたしたちは休息した。まだ、胸の鼓動は収まっていない。静脈の流れる音が耳元でごうごうと鳴っていた。健ちゃんと久美ちゃんの泥だらけの顔を見ていると、たった今空爆を受け逃げてきた外国の難民のようでとてもおかしかった。

周辺は路地が迷宮のようにつながっている緑の多い地域で、安アパートや古い木造の一戸建てが建ち並んでいる下町の風情がある。線路に平行して細道が駅まで続いている。周辺に植えられた花が終わった大きな紫陽花が路地をよけい狭くしていた。丁寧に並べられた鉢植えも同様にわたし達には邪魔者以外の何者でもなかった。人気のない空き地の隅でわたし達は固まってしばらく動かずに過ごした。あたりはすでに真っ暗になっていた。

第五節          区民プール    20水

「くせーな」

「お尻のところがまだぬるぬるしてる」

「おまえの顔、真っ黒けだぜ」

「健ちゃんだって」

「このままでは家に帰れない」

「オレだって」

「おふろにでもはいりたい気持ち」久美ちゃんが言った。

「よし入りに行こう、混浴でもいいのか」健ちゃんが優しく慰めるように行った。

「え?」久美ちゃんが大きいな目を見開いてわたしの方を振り向いた。

「そんなの知らないよ」わたしは大きく手を横に振りながら自分のアイディアではないことを強調した。

「まあいいじゃないか、ひとっぷろ浴びよう、ぬるめだけど文句無いよな?そこの彼女」健ちゃんが久美ちゃんお顔をのぞくようにして言った。

「人目のあるところにはいけないよ」わたしが言った。

「見つかったら警察に、捕まるかもよ」久美ちゃんが小声でわたしに言った。

「付いて来いよ」そう言って健ちゃんは天祖神社の方に向かった。わたしたちは少しそのままじっとしていたが、すぐに健ちゃんを追いかけた

「すこし冷たいかもしれないけれどがまんしろよ」といって入り口を探した。

神社の隣にあるいつも通い慣れた区民プールだった。プールはもちろん開業していたけれども夜間は閉鎖されていた。入り口には鍵がかけられていたが、金網を乗り越えれば侵入できる。

「乗り越えよう」健ちゃんが最初に金網にヤモリのようにしがみついて登っていった。金網の高さは二メートルほどで健ちゃんはいとも簡単に中に忍び込んでいった。そしてベンチに座り靴を脱いできれいにそろえておいた後、洋服を着たままプールの中に沈み込んでいった。わたし達も続いて金網にへばりつきながら登った。振り返って下を見ると久美ちゃんも泥だらけの顔をしかめながらわたしの後に続いて登ってきていた。金網の上はしっかりした鉄棒があり有刺鉄線など無かった。鉄棒に座る要領で腰を下ろし久美ちゃんが登ってくるのを待った。近づいてきた久美ちゃんに手を貸した。泥だらけの手はすでにカラカラに乾いており、しっかりと握りあうことが出来た。彼女を金網の上にひっぱり上げ、健ちゃんの泳ぎを見ていた。遠くに山手線の線路と電車が通る音が聞こえた。闇に目が慣れてきたのか久美ちゃんの幾分ふくよかさが無くなった顔が近くにはっきり見えた。わたしは勢いよく金網から飛び降りた。久美ちゃんはゆっくりと登ってきたときと同じスタイルで金網に縛りつきながら降りてきた。降りきったのを見届けてからわたしは、健ちゃんと同じようにベンチで靴を脱いでから足から静かにプールに入った。水はかなり冷たかったが、汗と泥を気持ちよく流してくれた。健ちゃんはすでに二五メートルプールの端まで泳ぎ着いていた。

わたしが頭まで潜ってから水面に顔を出すと、顔と頭にこびりついた泥がプールの水を汚した。数秒のうちに闇の中のせいか、泥の黒い渦潮は、拡散してなくなり元の透き通った水に戻ったように見えた。水の中で洋服をすべて脱ぎ、いつの間にかわたしと健ちゃんは全裸になりはしゃいで泳ぎまくっていた。

久美ちゃんは、プールの端に腰をかけて洋服を着たまま足を洗っていた。水をすくい顔を洗っている。

「おい、入れよきもちいいぞ」脱いだ洋服と靴をプールの縁にかけながら久美ちゃんを促した。

「このまま?」久美ちゃんが言った。

「脱いでもいいけど」わたしが言った。

「今日は闇夜だし、オレたちのことは気にすんな」健ちゃんが言った。

「あいつも一応女の子だよ」わたしはそういって健ちゃんと目を見合わせた。

「まあいい、そのままはいって中で何とかしろよ」健ちゃんが言った。

久美ちゃんは靴と靴下を脱いでプールの端に置くと洋服を着たままそろそろと足から水に入った。久美ちゃんのスカートが少し膨らんだがすぐに水の中に入ってしぼんでしまった。そして、ゆっくりとした平泳ぎで二五メートルプールの反対側まで泳いでいった。ターンして戻ってきて一番深いところでイルカのように一度伸び上がってからまた潜りしばらく出て来なかった。わたしが見回して探していると、いきなり目の前に潜水から復帰しざぶんと顔を出した。

「やあ、じゅん元気?」敬礼のまねをしながら久美ちゃんがいたずらそうに言った。

「およぎうまいね」

「下田の海で毎年やってるわ、もぐりは得意よ」そう言うとまた潜水で反対の方に泳いでいった。わたしも潜って彼女の後を追った。泳ぎながら、いつか記憶のある場面のように思えた。そうだ、いつもの夢の中で見るシーンだ。わたしが夢精を初めて体験した時の場面と同じだ。彼女の肢体にはスカートがまつわりついて泳ぎにくそうだったが、足で勢いよく水を蹴っていた。不思議な気持ちになってわたしは思わず自分が全裸であることに改めて気がついた。久美ちゃんの足は青白くてか細かった。スカートがまくれ上がって腰のあたりまで透き通った様に見える瞬間があった。追いかけて彼女の足に触れそうになったとき遠くで健ちゃんの声がした。「そろそろ出るぞ、管理人のオヤジが来るといけない」

わたしはあわてて向きを変え反対の方に泳ぎプールからでて、縁にかけておいた下着を着た。久美ちゃんは反対の縁にあがった。洋服を着たまま泳いでいたので全身から水が滴っており、長い髪はべっとりと頬と肩にへばりついていた。スリップは体にぴったりと張り付き、ずぶぬれの久美ちゃんは鳥殻のようにやせて見えた。でも、横を向いたとき光源を背にしたシルエットには久美ちゃんの胸もとは乳首の周りだけがすこし膨らんでいるようにもみえた。ぬれた髪を上に上げているので普段見えないおでこが丸見えになった。前髪に半分隠れていた眉毛が案外太くて凛々しい事もわかった。形の良いおでこには、これまでなかったであろうと思われる小さなニキビがぽつぽつと膨らんでいた。久美ちゃんの体は確実に変わってきていることをそのとき実感した。わたしたちは水浸しの洋服をそのまま着て靴下の水を絞り、靴を洗ってから履き元の金網から外に出た。いっこうにやまない滴を引きずりながら、わたしたちはまた歩き出した。泥はすっかり落ち気持ちはすっきりしたが、濡れた半ズボンとシャツが体にへばりつきものすごく寒かった。

第六節          りんご籾殻で乾燥 20水

「そうだ、神社の空き地に行こう」わたしは天祖神社のとなりの空き地にある籾殻の山を思い出した。籾殻は暖かそうだし、たぶんバスタオルの代わりになると思った。このあいだ果物屋の兄ちゃんのリンゴを取り出す作業を手伝ったあとにはたくさんの籾殻の山ができた。箱を持って現れ、何度も籾殻を捨てにくる。いつもリンゴの数をごまかしているあれだ。

「久美ちゃん、ずぶねれだね、夕立?傘なかったの?」わたしがからかった。

「じゅんちゃんこそ、川でおぼれかかった孤児みたいよ」久美ちゃんが応戦した。

「じゅん、何するつもりなんだ」健ちゃんが不審そうにたずねた。

「いや、絶対暖かくなれるから、ついてきてよ」

「たき火は目立つよ」健ちゃんが言った。

「どこかでキャンプファイヤーでもやっていないの」久美ちゃんが小刻みに震えながら言った。

プールから少し坂を下ると神社の鳥居がみえた。神社を突っ切りその裏の空き地に抜けた。空き地には籾殻の山がまだ燃やされずに残っていた。

「このことさ」

「なにが?」

「籾殻がタオル代わりさ」

「だいじょうぶ?」

「よし、やってみるからね」わたしはそういっても身柄の山の中に潜り込んでいった。籾殻は太陽のぬくもりがまだあり暖かかった。手でほじくると地面に接しているところは冷たく湿気も感じられたが、上澄みは十分すぎるほど柔らかで乾燥していた。わたしは籾殻を吸い込まないように息を止めて、顔にまぶしシャワーで洗うようにをこすった。

「少し痛いけど、寒くなくなったよ」

健ちゃんが勢いよくジャンプして飛び込むと久美ちゃんも籾殻の中に入ってきた。そして人心地つくと、みんなで一斉に籾殻を掛け合った。口や鼻や目や耳に籾殻が入り込み気持ちが悪かったが、寒さをとおりこして暑くなってきた。

「いい衣がついた、これなら寒くない」健ちゃんが言った。

「洋服も何とか乾燥させることが出来たわ」久美ちゃんが機嫌良く言った。

「これでやっとふつうの生活に戻れそうだな」健ちゃんがそういっても身柄の山のてっぺんに大の字に寝そべった。

「久美ちゃんがここにいるなんて信じられないな」感激の意味を込めてわたしが言った。

「わたしだって」

「とんだ巻き添えだよね、どうして線路に降りてきたの?」

「だって、さっきも言ったでしょ」

「なんて?」

「ケンカしていて鯨岡君が崖から滑って落ちたでしょ、絶対ケガしたと思ったわ、助けなきゃと思ったの」

「それで崖を降りてきた?」

「うん、ナイチンゲールの心境よ。そうしたら駅員さんが気づいて、あの大騒ぎ。じゅんちゃん!ってなんども呼んだけどどんどん逃げて行くばかりで」

「ごめん、ほんとに気がつかなかったんだよ」

「ほかの連中どうしたか知っている?」

「住友君は下で動けなくなっていた、でも大したけがじゃないといいんだけれど」

「ほかには?」

「鯨岡君は山手線のホーム方に逃げていったと思うの」

「途中で駅員が皆引き上げていったろ、あれはどうしてなんだろう」

「だから、山手線の方で何か事故でもあったんじゃないかと思ってそれが心配なのよ」

「電車を止めちゃったとか。そうだとしたら。学校で大目玉だな」わたしは声が詰まった。

「あーあ」久美ちゃんは後悔しているとも楽しんでいるともわからないようなため息をもらした。

「とんだ夏休みになっちゃたね」わたしは慰める意味合いで籾殻を握りつぶしながら言った。

「いい思い出になるかも」

「学校で怒られるな、久美ちゃんのことは黙ってるから安心してよ」

「ありがと」

「まあいいや、夏休みは遊んで、二学期の始業式で怒られればいいんだ」

「わたし二学期の始業式には学校に行かないと思うわ」

「こんな事件起こしたから?」

満面に笑顔を浮かべて

「あはは、違う違う、わたしねこの夏休み中に転校するわ」籾殻をいっぱい髪や顔につけて言った。

「久美ちゃんが?」

「パパの転勤で」

「どこへ」

「ロンドン、パパは先月からもう行ってるの」久美ちゃんはあまりにもさらりと言った。

「えっ?ロンドンって、イギリスの?」籾殻を一つひとつゆっくりと顔から取り除きながら次の言葉を考えた。

「アハハ、そう、イギリスのロンドン。向こうには日本人の学校があるって。だから心配はないと思うけれど」

「久美ちゃんのお父さん、放送局の記者だったよね」

「うん、支局のそばには大きな公園もあるし二階建てバスも走っているんだって、きのう絵はがきが来たわ」

「そう、ずいぶん遠くだな」

「五年生の時、誕生日会にうちに誘ったの覚えてる?」

「知らないよ」

「ほんと?とぼけてんだから」

「そんな昔のこと」

「約束したのにすっぽかして」

「そういえば、久美ちゃんのおばさんがうちに来て、待ってたのにどうして来なかったんですかとか言ってたよね」

「ほら、覚えているくせに」鋭くつづけた。

ほんとに忘れていたのだ、でもそのころはもっと楽しい遊びが外にたくさんあった。女の子の家にお呼ばれなんてかっこわるいと思っていた。それならきちんと断ればよかったのだ。いい加減な性格があらわになった。

「じゅんちゃんって変だよ」

「なにが」

「不良じゃないのに不良仲間に入っていて」

「え?」

「全然似合わないよ」

「そう見えるのかなあ」

「富田君とか鯨岡君はちょっとまずいよ」久美ちゃんは眉を上げながらわたしのほうに向き直っていった。クジラをまずいというのには腑に落ちなかったが彼女も回りのうわさだけに流されている。自分で確かめたわけじゃないんだ。反論しようとしたが、その会話はこの場の雰囲気にとても似つかわしくないように感じた。

「久美ちゃんも行っちゃうのか」わたしは話題を変えた。ずいぶんと長いポーズがあった。遠くに早稲田行きの都電のヘッドライトが見えた。電車の音がちかづく前に久美ちゃんが沈黙をやぶった。

「でも、じゅんちゃんには関さんがいるじゃない、じゅんじゅんコンビで仲良くやって」サバサバとした乾燥ぎみの声で、わたしの目を覗き込みながら言った。

「関さんは関係ないよ」

「好きなくせに」

「ちょっと、ちがうんだな」籾殻を集めてもう一度自分の全身にまぶした。籾殻は全身をマスクするようでこんな話もあまり照れずにできた。

「なにがちがうの」久美ちゃんの髪には籾殻が中まで入り込んで点々としていた。肩までの長い髪に籾殻が白ごまのようにまぶされていた。いつも自信ありげに引き締まっている唇は、縁日の時の透き通ったスモモの赤とは反対に、その夜はたくさんの絵の具を混ぜすぎたような色に染まっていた。寒さのせいかかすかに震える唇に一つ二つ籾殻が揺れて金色に光っていた。

「住んでる世界が」久美ちゃんの方が関さんよりずっと大人で悪い女に見えることがあった。関さんは愛くるしくて快活で誰もが好きなお嬢さんだ。わたしとは全然住んでいる世界が違うことを言いたかった。

「はは、気取ってる」唇の籾殻を手で払いながら久美ちゃんがからかうように言った。久美ちゃんの顔がずるそうに笑ったので、わたしはすこし戦闘的になった。

「もみがらあたま!」そう叫んで、手にいっぱいつかんでいた籾殻を久美ちゃんにぶつけた。

「しらみあたま!」久美ちゃんも負けずにプールで水を掛け合うような仕草でわたしに籾殻の塊をすごい勢いで連射してきた。籾殻は神社から洩れる提灯の明かりで金の小粒のようにキラキラと光った。空はビロードのように真っ黒だった。応戦しようともういちど手元の籾殻をすくい上げようとしたとき何か堅い物が手に触れた。石ころよりは柔らかい感触だった。

「ちょっと、待って」

もしかしたらとおもい籾殻の中を探してみた。まさぐる手をふざけて久美ちゃんの足を触った。

「きゃあ!」と久美ちゃんが叫んだがその声を無視してまさぐった。あるある一つ二つ、リンゴが二個でてきた。その日の事件のことも忘れてすこしうれしくなった。久美ちゃんにひとつ渡しながら「夕食にありついたよ」と健ちゃんに言った。

「なんだリンゴか?オレはいいよ、久美ちゃんにやれよ」健ちゃんは籾殻の山の中に寝そべったまま低い声で言った。

「ああ」わたしは久美ちゃんに小さい方を放った。

「わたしはいいわ、もう家に帰らなきゃ、きっと心配してるわ」そういいながらリンゴを健ちゃんに手渡した。

「はらぺこだ」

「ナイフがないわね」

「いいさ、皮のまま食べよう」わたしはリンゴをシャツで磨き始めた。

小振りの青リンゴは磨くと夜の薄暗い証明の中でもはっきりとわかるように光り出した。

「これをつかえよ」健ちゃんはケンカで使った折り畳みナイフをポケットから取り出した。豊島小学校の奴らを斬りつけたナイフだ。健ちゃんはわたしがリンゴを磨いたようにナイフをシャツで丁寧に拭いた。ナイフの刃には血の跡がうっすらとついていた。ナイフを渡す無神経さとわたしたちの会話に割り込んできた健ちゃんに少し腹が立った。

「健ちゃん何でなんでナイフ持ってたの?」

「いざというときのためさ」健ちゃんは破けたジーンズの膝を揺すりながら大人っぽく言った。

「喧嘩のために?」

「ああ」

「ルール違反だよ」

「だから、使うつもりはなかった」

「でも、警察に捕まったら絶対不利だよ」

「おまえたちのためだぞ」それはそうだ。健ちゃんは私たちのためにやってくれた。

「だって」健ちゃんは反論しようとするわたしの言葉を遮りながら

「奴らをやっつけるのに、役に立ったし」そういいながら、ナイフでリンゴを半分に割った。

「久美ちゃん半分こしようぜ」

ナイフはわたしの主義に反していた。喧嘩は素手が原則だ。やっぱり健ちゃんは不良かもしれないと思った。

「やるよ」健ちゃんはナイフで半分に割ったリンゴの一方を久美ちゃんに差し出した。わたしは小さい方を渡したことに少し後悔していた。

「ありがとう」素直に言って半分に割ったリンゴを受け取った。

「わたし剥くわ、ナイフ貸して」

「じゅん、おまえは一つ食っていいよ」健ちゃんは割った半分のリンゴとナイフを久美ちゃんに渡した。久美ちゃんはナイフで丁寧に皮をむいて健ちゃんに渡した。

「久美ちゃん器用だね」

「そんな」妙に女らしくにっこりと笑った。

「ぼくは、そのまま食べる」

「剥いてもらえよ」

「いいよ、皮に栄養があるんだ」テレビでやっていたクイズ番組の回答を思い出しながらわたしがやや不機嫌に言った。

「いや、皮の近くに栄養があるんだ」物知り顔で健ちゃんが訂正した。

リンゴは何回もシャツで拭いていたので鋭い光をはなっていた。空腹感はあまりなくなっていた。夢中でかぶりついた。みずみずしいリンゴは甘い汁が唇をぬらし渇いたのども潤した。固い皮が歯にはさまった。固い皮が少しにがく感じた。食べ終わって捨てたリンゴはひょうたん型になって見る見るうちに酸化して茶色に変色していった。

少年マガジンの裏表紙広告の通信販売で買ったという健ちゃんの腕時計は七時一〇分で止まっていた。とっくに九時はすぎていると思う。わたしたちは久美ちゃんを自宅近くまで送っていくことにした。

「籾殻が髪の中に入って取れないわ」久美ちゃんは顔をしかめながら髪に付いた籾殻を手櫛で何度も払う。

「ごめん、とんだ夏休みになりそうだね」

「いいよ、いい思い出になりそうよ」

「そうかなあ」わたしはうつむき泥がつまった真っ黒になっている手の爪を見ながら言った。

「じゅんちゃん、これからどうするの?」わたしの顔を下からのぞき込むようにして訊いた。

「わからない」本当にどうしたらいいのか解らなかった。それよりクジラや住友のことが気がかりだった。住友は崖の方へ駆けだしていった。クジラは駅のホームから乗客に紛れて逃げたに違いない。だぶんみんな逃げ切れて今頃は銭湯の湯船に浸かっているのかも知れない。わたしが一番へまをしただけだ。そんな気がした。

「イッセンバシの様子を見に行こう」健ちゃんの張りつめた声が聞こえた。

神社から空蝉橋まで久美ちゃんを真ん中に三人で並んで歩いた。暫くすると橋の薄暗い明かりが見えてきた。橋には野次馬らしい人だかりがあり、みな手すりに寄りかかりながら駅の方を見下ろしていた。わたしたちも人混みの中に入った。崖下は暗くて様子が分からなかったが、プラットホームは照明でくっきりと浮かび上がって見えた。ホームの線路下には駅員と警察官が数人おり、あわただしく作業をしている。駅前の広場にはパトカーが駐車してあり赤いランプがせわしく回転していた。

「何だ大げさな、子供のいたずらぐらいで」と健ちゃんが独り言のようにつぶやいた。橋にたむろしていた人たちの話を断片的に聞いていくうちに、子供がけがをして救急車で運ばれたらしいことが分かった。

「誰が怪我したんだろう」

「健ちゃんにやられた深沢じゃないか」

「住友君が崖を登っていくのは見たんだけれど、逃げ出したのかなあ」久美ちゃんが心配そうに言った。

「クジラはにぶいから、捕まったかもな」

「捕まっていたら、オレも明日学校に呼び出し食らうな。でも健ちゃんのことは言わないからね」わたしは健ちゃんに気兼ねをして言った。

「気にするな、じゅん。今夜は隠れ家でも探して、夜明かしでもしよう」

「健ちゃんの家に泊まろうよ。もともとの計画だし」

「警察が来ているかもな」

「そんなバカな。健ちゃんのことは誰も喋らないよ。来ているならぼくのうちかも」

「オレは深沢をやったんだ」

「ばれてないよ」

「足をかなり深く刺したから動けないはずだ。奴は捕まって病院行きだ。もうとっくにばれてるさ。オレは傷害罪で追われる身ってことだ」

「どこに隠れるの?」

「ゴーグジにでも行くか」

「夜のゴーグジか」少し気味悪かった。

「怖いか?」健ちゃんは意地悪そうにわたしを見た。

「ぜんぜん」わたしは強がりを言った。

「久美ちゃん、早く帰りな。風邪引くよ」わたしは護国寺に行くかどうかの判断を保留して、小刻みにふるえている久美ちゃんに帰宅を勧めた。

「わかったわ。あたしはじゅんちゃんも家に帰った方がいいと思うけど」

「オレのことはいいから」

「ホントに?じゃああたし帰るけど」久美ちゃんは、普段と違った泥にまみれたみすぼらしい身なりで何度も振り返りながら帰途についた。

第七章          境内の一夜

第一節          境内ラジオ軽音楽 20水

わたしたちはなるべく目立たないようにその場から離れた。健ちゃんもう家には帰らないようだ。爪先は自宅と反対の方向に向いている。わたしも数歩遅れて後に続いた。泥だらけの服と運動靴に引っ掻き傷だらけの手足、健ちゃん自慢のリーゼントはべったりとしぼんでしまい前髪がたれて目にかかっていた。健ちゃんはわたしの首一つ半ほど背が高い。遠目からは物乞いを終えて塒に帰る乞食の兄弟に見えるかもしれない。

「じゅん、やっぱゴーグジに行こう、あそこなら見つからない」

「家に帰った方がいいんじゃない?」おそるおそる言ってみた。

「今夜はどっかに行きたい気分なんだ」ずいぶんとカッコを付けている。普段ならここで髪に櫛を入れるところだろうけれど、櫛は騒動でなくしたようだった。

「でもぼくたち何も悪いことしてないよ。逃げただけじゃないか。確かにケンカと線路の上を走ったことはいけないと思うけれど」

「そんなことはかまわないさ」

「健ちゃんが切りつけたあいつのケガのこと?」

「もう、いいんだよ。じゅん、帰ってもいいぞ」

「いや、ぼくもいくよ」

健ちゃんはまっすぐ前を見て口元を固く結び、何度も自分で頷いていた。暗く人通りの少なくなった春日通りを五分ほど歩くと仲町に出た。交差点を右に曲がり富士見坂を下ると護国寺前交番の赤い電灯が見えてきた。わたしは交番の警官にすべてをうち明け自首した方がいいと思った。

「健ちゃん、ごめん」わたしは下を向いて殊勝に言った。

「なにが?」

「今日、ぼくが健ちゃんにケンカの助けを頼んだばっかりに」健ちゃんの腕に刻まれた新しいナイフ傷を見てわたしはしきりに反省した。

「気にするな、オレは暇だったし。家には誰もいない。おまえから頼まれれば断れないし」健ちゃんが明るくかわした。でもわたしの気持ちは相変わらず沈んで行くばかりだった。

「珠恵さんは?」

「義兄さんのところへ戻ってる」

「じゃあ今夜は、ぼくたちの帰りが遅いと心配する大人は今のところいないね」

「ああ、今日の事件がばれていなければな」

当面は騒ぎになってないと思いわたしは少し安心した。自分の家のことが気になったが、その日は健ちゃんの家に泊まる許可を得ているので問題ないはずだ。「すべては明日考えよう」そう思った。面倒なことは先送りする。わたしの一番嫌悪すべき性癖だ。

夜の護国寺は去年の夏休みにやった肝試しの時以来だった。交番の警官と正門の両脇ににある金剛力士像が怖いので手前の参道から護国寺に入った。この参門は通学の時にもよく利用していた。通るたびに敷いてある長い石畳の数を勘定するのが子供たちの常であった。自分の冷静さを確かめたくって、頬をつねる動作の代わりに石畳を数えた。いつものように八八枚あった。わたしはまだ正気でこれは現実なんだということを思い知らされた。

本坊を抜けて正面の階段を上れば本堂に通じる。本堂に向かう長い階段を上るときわたしは何度も後ろを振り返り尾行されていないかを確かめた。夜遅くお寺に向かう子供を見かけたら誰でも不審に思うに違いない。

「あそこに隠れよう」健ちゃんが本堂の階段下に目をやった。わたしたちが学校帰りに荷物や遊び道具を隠しているおなじみの場所だ。

縁の下を囲っている鉄の柵を手慣れた動作で取り外して中に入った。石灯籠が並んでいる比較的明るい場所を選んでわたしたち座り込んだ。境内の照明と敷き詰めた白い砂利のおかげで隠れ家としては必要以上に十分な明るさだった。床下の地面は乾いた砂土で床下の梁には蜘蛛の巣もない。干上がった湖の底のような臭いをのぞけばすこぶる快適だ。柱の出っ張りは至る所にあるが二人で座り込んでも狭さは感じない。

健ちゃんは乾いた砂土を手ですくい握りしめては落とす動作を繰り返していた。そしていくつもある蟻地獄の巣を興味深げに、穴の主との出会いを期待するように黙って見ていた。わたしは仲間と共用の遊び道具が入れてある段ボール箱を奥に隠してあることを思い出した。縁の下のさらに奥まで這って行きて段ボール箱にたどり着くとそこから中に敷いてある新聞紙を取り出した。

「健ちゃんこれ、おしりに敷こうよ」わたしは身体を埃だらけにしてせき込みながら新聞を半分に破いて渡した。

「ああ、それよりマンガと懐中電灯はないか?」健ちゃんが新聞紙を折り畳み尻に敷きながら言った。

「ないと思うけど。探してみる」わたしはもう一度腹這いになって進んだ。この手の仕事はわたしの得意分野だ。段ボールの中を探ってみると学校に提出して戻された工作、縄跳び、ビー玉、野球のグローブがあった。マンガはなかったがその年の春休みに自分で作ったトランジスタラジオがあった。このラジオは初めて自分で作った作品で、ラジオの製作雑誌をみて組み立てた。秋葉原まで自転車で行って部品を買いそろえて実体配線図と照合しながら、みよう見まねで作った代物だった。

「ラジオがあるよ」わたしはビニール袋からラジオを取り出して、そっとスイッチを入れた。ガリガリというノイズとピューンという発振音がたよりない音で聞こえてきた。

「音楽のリクエスト番組に回してくれ」と健ちゃんがいった。ダイヤルを回していくとJOQRでアメリカンポップスを放送していた。女性のディスクジョッキーの曲紹介でエルビス・プレスリーの「テディベア」が流れてきていた。続いてジョニー・ソマーズの「ワンボーイ」がかかるとお気に入りらしく「ワァン ボォーイ ワンスペシャァル ボォーイ」健ちゃんが鼻にかかった声でラジオから流れてくる曲に合わせて歌いだした。久美ちゃんが好きだと言っていた曲だ。

♪ One boy, one special boy,

One boy to go with to talk with and walk with

One boy that the way it should be.

健ちゃんは「ワンボーイ」は良い曲と歌詞だが、プレスリーの「テディベア」はひどい歌詞だといっていた。歌詞を解釈して丁寧に自分に陶酔しながらわたしに教えてくれたが何のことやらわからなかった。

「テディベア」が何故悪いかと聞くと「中学二年生が英文解釈してひどいことが分かってしまうぐらいひどいということさ。でも好きだよオレ、単純で、うん」自分で何度も頷いていた。

♪ One boy, one steady boy,

One boy to laugh with, to joke with, have coke with

One boy that the way it should be.

「おまえ、コーラ飲んだことあるか」

「ないけど」

「今の歌詞の中で、to laugh with, to joke with, have coke withってとこ」

「ちんぷんかんぷん」

「たぶん、最後の歌詞でコーク ウイズのところはたぶんコカコーラのことだと思うんだ」健ちゃんは新種の生物を発見した学者の記者発表のように得意そうに言った。

「ふーん」コーラがどんな飲み物か知らないし、そんな話題はわたしの興味の範囲外であった。

「アメリカの恋人同士は、冗談言って、笑って、コーラ飲んだりするもんなのさ」

「ぼくは、ラムネの方がいいな」

「ハハハ、じゅんらしいや」首を振るのを曲にあわせ機嫌良さそうに言った。

「健ちゃん、ポテトチップって食べたことある?」わたしは住友の家で食べた洋風の菓子を思い出した。新しい食べ物のことも少しは知っていることを示威したかった。

「ああ、ジャガイモを薄く切って揚げたヤツ?」

「うん。あれって、うまいよね」

「そうかな」

「いや、いつも南京豆とか、花林糖とか、せんべいとかばかりだと飽きちゃって、ポテトチップて衝撃的だよね、やっぱり」

「そうかな」健ちゃんは音楽に聴き入っていて、わたしの話は聞いていないようだった。

「なんか、いろんな味が入っいて、不思議な感じしちゃってさ」

「オレは、柿の種のほうがいいな」ワンボーイのエンディングにはいるとやっと自分に意見を開陳した。

「その、新しい味っていうか、大人の感じっていうのか、酸っぱいつうのか甘辛いってのか」そのあとこれも住友の家で出されておいしかった冷やし中華の話もしようとしたら、本堂に向かって来る小さな明かりが見えた。

第二節          久美ちゃんの差入 20水

懐中電灯の明かりだ。

「やばい、隠れろ」わたしたちは縁の下の奥へ移動した。

光源の目標が定まらずに左右に揺れている。やはり何かを探しているようだった。光は地を這うようこちらに近づいてくる。やがて目的を定めたようにまっすぐこちらに向かってきた。だいぶ近づいて来たので人影が確認できた。お寺の提灯の明かりだけなのでぼんやりとしたシルエットしか見えない。

「警官かな?」

「いや、ちがう」

「お坊さん?」

「坊主にしては袈裟を着てないみたいだ」

近づくにつれ安心してきた、子供のようだった。

「おい、久美ちゃんじゃないか?」健ちゃんが言った。

「うん、そういえば女の子みたいだ」髪が長い女の子だ。細い身体に白いブラウス。久美ちゃんに間違いなかった。わたしは縁の下を飛び出した。久美ちゃんは自分の前に立ちはだかったわたしを見て一瞬ひるんで「きゃっ」と小さな叫び声をあげた。

「久美ちゃん。どうしたの?」わたしが叫んだ。

「ああ、じゅんちゃん、驚いた、急に飛び出さないでよ、大きい狸かと思ったわよ」わたしだと分かると姿勢を正して体勢を整えた。

「脅かしてごめん。でも久美ちゃん、何でここがわかったの」

「だって大塚駅で分かれるとき、ゴーグジにでも行こうかって言ってたじゃないの」

「ああそうか、いい感してるじゃない」わたしはそれまでの経過を思い出し納得した。

久美ちゃんは家でまともなお風呂に入ったらしい。長い髪にはもう籾殻はひとつもなく、甘いシャンプーの香りがした。髪をまとめずにおろしているのでいつもより子供っぽく見えた。

「いつも学校の帰り、境内の下に隠れて遊んでるじゃないの、あそこだなってピンと来たわ」

「ここに来るまで怖くなかった?お母さんに見つからなかった?」わたしは矢継ぎ早に質問した。

「家に帰ったら、裏のドアには鍵かかかってなかったの」

「それで」

「だから、そっと家の中に入ってお風呂に・・」

「あの汚いかっこ見られなかったの?」

「ええ、服はお風呂の中でもう一度洗って、あとは洗濯機にぽいっと」

「よく見つからなかったね」わたしは感心していった。

「母さん、いつの間にか帰ってお風呂から上がったわたしの顔見て驚いていたけど、でも引っ越しの準備でてんやわんやで、助かったわ」

「そうか引っ越しだね」

「久美ちゃん、家の人、今日のケンカのこと何か言ってなかったかい?」健ちゃんも床下から出てきて訊いた。

「ううん。うちでは何も」

「じゃあ、大したことないってことか」

「そうかも、それより余ったご飯でおにぎり作ってきたけど、食べません?」久美ちゃんが健ちゃんとわたしを交互に見て言った。

「すごい、ありがとう」わたしは感激して言った。

「それから懐中電灯とお菓子も」久美ちゃんは経木にきちんと包んだおにぎりと袋に詰めたお菓子を手渡した。

「久美ちゃん気が利くな、ありがとう。ところで今何時だい?」健ちゃんが訊いた。

「家を出てきたのが九時くらいかな」

「へえ、そんな時間か。お母さん事故やケンカのこと知っていた?」わたしが健ちゃんと同じことをもう一度訊いた。

「いいえ、何もいっていなかったわよ。まさかわたしがケンカに巻き込まれたなんて思ってもいないのかもしれないけれど」久美ちゃんの言葉にわたしは少し安心した。大した話じゃなかったのかもしれない。わたしはそう思いたかった。

「ともかく、ごちそうをいただこう」健ちゃんが言った。

「こんな冒険初めてよ。母さんに黙って、夜遅く家を抜け出すなんて」久美ちゃんが快活に言い放って、その場は華やいだ雰囲気になった。

わたしたちは床下に戻り、にぎりめしをほうばった。腹が減っていたせいか涙がでるほどうまかった。塩をつけて握っただけのようなのにご飯の味は深みがあった。白いご飯がこんなにうまかったなんてその時まで気がつかなかった。健ちゃんとわたしで大きめのおにぎりを四つたいらげた。

「もっとないの?」わたしが図々しく言った。

「余ったご飯を握っただけだから。それよりじゅんちゃん家に帰った方がいいんじゃない」

「もう少しここにいるよ」

「じゅんちゃんのお母さん心配してるかも」

「今日は健ちゃんち泊まるっていってあるし。たぶん今日も仕事が忙しくてそれどころじゃないと思うよ」

「でも・・」久美ちゃんは反論しかけたがわたしが遮った。

「心配してくれて、ありがとう。それよりもう遅いから久美ちゃんこそ帰りなよ」

「わたし帰るわ、引っ越しの準備もしなきゃ」

「外国に行くなんて信じられないよ」

「あたしも信じられない。それも来週」

「不安はないの?」

「不安だらけよ。わたしこう見えても神経質だから。向こうで気が狂っちゃうかも。そうしたらじゅんちゃん迎えに来てよね。でも、気に入れば日本よりも快適だってお父さんが言ったし。その時はじゅんちゃん遊びに来てよね」

「ああ、航空券さえ送ってくれればねいつでも」

「あっはは。そうね」

「飛行機の乗り方教えてくれれば」わたしは真剣に答えた。

「手紙書くわ」

「久美ちゃん、転校すんのか?」健ちゃんがぶっきらぼうに訊いた。

「はい」久美ちゃんはニッコリ笑って答えた。

「へえ、おまえたちの長すぎた腐れ縁も幕を引くときが来たか」健ちゃんが茶化した。わたしは久美ちゃんに何かあげようとポケットの中をまさぐって手がかり探したが全く空だった。縁の下の段ボールにビー玉のことを思い出した。その中に出来損ないのビー玉が一つある。ガラスが溶けて固まらないうちに転げ落ちたのだろうか、球がひしゃげていて、おまけに排泄したばかりのウンチのように頭がとんがっていた。すべてがお揃いのビー玉の中で唯一の変わり者だった。わたしはこのビー玉が気になっていた。自分の分身にも思えていた。分身ならば十分に餞別で遠くに行かせる役目は担えると思った。

「久美ちゃん、餞別でもあげたいけど、こんなものでもいい?」わたしはひしゃげたビー玉を差し出した。

「あら、かわいい。ありがとう」そういうと手にとって薄明かりに何度も照らして不思議な形を観察していた。

「なにこれ、水滴の形?それとも」

「ガラスのウンチに見えない?」わたしはそう言ってからしまったと思った。

「いやだなあ、変なこと言って」

「久美ちゃんならそんなのしそうだよね。透明で臭わない」健ちゃんが声を上げて笑いながら言った。

「やめてよ!」

「久美ちゃんのはそんなに固いわけないさ」わたしは弁護ともからかいとも分からない助け船を出した。久美ちゃんはわたしたちの会話を無視して暫くビー玉を見ていた。

「そうだこれガラスのタマネギよ。そっくりだわ」ガラスを眼鏡のようにしてわたしを覗いた。

「すごい!これってレンズになっていて、じゅんちゃんが横長に見える」

「どれどれ」わたしもガラスのタマネギ越しに覗くとすべてが横長で曲がって見えた。

「でもお別れだね」わたしはビー玉を久美ちゃんにわたしながら言った。

「そんな大袈裟な。まだしばらくは居るし。足の怪我はどう?」そう言いながら久美ちゃんはひしゃげたビー玉をもう一度眺め、そしてスカートのポケットにしまった。

「ああ、そんなの忘れていたよ」膝のすりむいたところはもう血が固まっていて痛みもなくなっている。久美ちゃんに指摘されたとたんひりひりと痛みだした。でもそんなことより唯一気楽に話が出来る女友達を失う痛みの方がずっと大きかった。

「ばい菌が入るといけないわ、あそこの水道で洗ってこれを巻いておくといいわ」そう言って白い木綿のハンカチを差し出した。

「ありがとう。でももういたくないよ久美ちゃん」そういいながら、わたしはハンカチを受け取った。洗い立てのガーゼのように柔らかいハンカチだった。

「健ちゃんも。今日はありがとうございました」そう言って気だての良い律儀な小学生風に頭を下げた。

「ああ、久美ちゃんも元気でな」健ちゃんがそう言うと、あとは何度も振り返りながら元来た道を早足で帰っていった。この先、久美ちゃんにはもう会えないような気がして、わたしは後ろ姿が暗闇の中に消えるまで見送った。

「久美ちゃんて可愛いよな。じゅん好きなのか?」

「え?幼なじみってだけかな。好きとか嫌いとかそんなこと全然ないよ」わたしは素直に答えた。健ちゃんの目から見ても久美ちゃんは可愛く見えるということがむしろ驚きだった。

久美ちゃんがいなくなりわたしは気が抜けたようになった。そしておにぎりで腹が膨れて余裕がでてきたのか、ものすごい睡魔がおそってきた。

第三節          おけいちゃん    20水

いつのまにか寝入っていたらしい。逃亡している夢を見ていた。追いかけられているが、自分の足がクラスの一番どんくさいやつよりさらに遅くなっている。みんなが逃げていくのに自分は捕まりそうになる。追いかけてくるのは警棒を持った警官だ。万引きをしたあと追いかけられているのだろうか。すぐ先に区民プールが見えた。金網を乗り越えて中に入ろうとするが、この金網がとてつもなく高くそびえ立っている。懸命に登って行くがいっこうに終わりが見えない。追いかけてきている警官の数が何十人にも増えている。下を見ると同じ顔をした警官が黒い制服を着てゴキブリのようにびっしりと金網に張り付いている。やっと金網の上に出たので下を見るとプールが遙か眼下に見えている。警官は直ぐ後ろに迫っていた。思い切ってプールに向かって飛び降りた。空中を体がくるくると舞う。飛び込んだ感覚はないのに体はプールの中にあった。前を見ると久美ちゃんが泳いでいる。いつもの見慣れている夢になった。水着姿の久美ちゃんを捕まえようとして抱きつこうとすると、前から警官が制服を着たまま泳いでくる。何十人という数になりわたしの周りを覆い尽くした。一瞬まわりが警官の制服で真っ黒になったと思ったとたん、水中からわたしは飛び出して、また追いかけられている場面になった。逃げ走る道が急に舗装から線路に変わった。追いかける人間も警官から駅員に変わった。あいかわらず走る速度は極端にのろいのでついに捕まってしまう。わたしの体は図体の大きい駅員に押さえつけられてしまった。そして体が痛いのと、誰かがわたしの上にしかかってくるような感覚があり、半分恐怖感を伴って目を覚ました。

ごそごそ人間が動く気配がした。続いて低い声で話をする声がする。誰と話しているのだろうか。わたしの体にのしかかる重さは大柄の人間の身体のようだった。そして誰か他人の手がわたしの顔に触れた瞬間、わたしはのしかかる身体を振り払い飛び起きた。目に飛び込んできたのは、暗がりに浮かぶひげ面の大男だった。わたしの首を絞めようと毛むくじゃらの手を伸ばしてきた。真っ黒の顔で目だけが丸く光る、本堂に来るときに通りがかりの仁王門でみた恐ろしい形相の金剛力士像の復活を見ているようだった。

「や、やめろ!」わたしは恐怖のため大声を上げた。

「おお、小僧、起きたか」男は低い声で言った。

その男の後ろで健ちゃんの笑っている姿が目に入った。

「だれだ、おまえ」

「じゅん、寝ぼけるなよ」健ちゃんが冷静な声で行った。

「健ちゃん、知ってる人?」

「まあな」

「びっくりするなあ。だから誰なの?」

「古い知り合いってとこかな。寺の住人だよ」健ちゃんは相変わらず笑っている。

彼が有名な「おけいちゃん」だった。本当にいたのだ。猫や犬を食べてるとか、小学生が脅かされたとか、墓場を荒らしているとか、酔っぱらって森の中をうろついているとかいろいろの噂があった。ともかく護国寺の森の住人らしい。おけいちゃんはずいぶん年寄りに見えた。すすけた顔がそう見せているのかもしれない。長く肩までのびた髪はずっと風呂に入っていないらしくごわごわに固まっているようだった。太った体はヒグマそっくりだった。よく見ると目が丸くて下ぶくれの輪郭でそんなに恐ろしい顔でもない。

「君、何年生だい?」おけいちゃんが訊いた。言葉の丁寧さと落ち着いた低い声がわたしを驚かせた。

「六年」反射的に答えた。堅い土の上で寝たせいか肩と首が痛かった。

「学校はどうした?」

「今日は、終業式。あしたから夏休みさ」

おけいちゃんはわたしには六〇歳台にみえた。でも声は若く張りがあった。

「あしたから夏休みか、最高だな」

「うん、最高っす」わたしはオウム返しに答えた。

「人生これからだ」

「まだまだ、たっぷり休みがあるよ」健ちゃんも嬉しいのだろうか。

「オレは、夏休みの終わりって感じかな」

「おけいちゃん夏休みがあるんですか?」わたしは変だと思ったが、バカな質問をした。

「人生の黄昏ってことよ。つまり使い果たしちゃったオレと。これから始まるおまえたちがいる」そう言って泥だらけの上着の内ポケットから携帯用のウイスキー瓶を取り出して一口飲んだ。

「夏休みは何日ある?」おけいちゃんが訊いた。

「そうさな、四〇日ぐらいか?」健ちゃんが素直に答えた。

「一ヶ月と一〇日、六週間だよ」わたしが補足した。

「わしの人生はちょうど夏休みの終わる前日ってとこかな」

「残り長く生きられないと言うこと?」わたしが訊いた。おけいちゃんはわたしの質問には答えず話を続けた。

「休みの初めは、えらく長く感じる」おけいちゃんが言った。

「永遠に続くようにも感じる」わたしが詩の朗読を読むように言った。

「でもあっとゆう間さ。終わりに近づかないと分からない」

「八月の終わりにわかるっていうこと?」

「まあ、そんなことかな。たとえば本堂の裏の土台に焦げた後がある、わしが子供の頃焦がした後だ。でも何年経ってもそのままだよ。そしてそれを見ると昨日のことのように思える。それでやっと人生短いなって分かるんだ」おけいちゃんは酔っぱらっているようだったが語気は鋭かった。

「なんで焦がしたの?重要文化財火気厳禁って札があるよ。焚き火でもしたの?」わたしは真面目に訊いた。

「おまえさんもお寺の柱にでも印でも付けておいてごらん、半世紀経ってそれを見つけることが出来ることがあれば、同じように感じるかもな。まあ、お寺が残っていればの話だけれど」

「小学校は建て替えてもお寺は残るだろうね」健ちゃんが寝ころびながら言った。ラジオからは歌謡曲が流れてきていた。

「島倉千代子は好きなのかい?」

「別に、普通だけど」健ちゃんが退屈そうに言った。

ウイスキーの瓶をラッパ飲みしながら、おけいちゃんが「八一〇キロに合わせてくれ」といった。

「なにそれ?」わたしは素っ頓狂な声で応じた。

「エイトテンFENだよ、聞いたことないかい?」

「極東放送ってやつだろ」健ちゃんが言った。わたしは久美ちゃんが聞いていると言っていた英語の放送局のことを思い出した。

八一〇キロサイクルに同調するとラジオからべらぼうな早口で英語らしい言葉をまくし立てる声が聞こえてきた。重大ニュースでも入ったのかものすごくエキサイトしている。その叫びにも似た早口の英語が静まるとやがてトランペットの響きが聞こえた。ずいぶん昔に聴いたような曲だ。おけいちゃんは「おう」といって新聞を丸めてたたみ口元に持っていった。

「それ、なんなの?」わたしが訊いた。

「トランペットのつもりだろ。サッチモだよ」健ちゃんが言った。

「え、誰?」

「ルイ・アームストロング、黒人のトランペット奏者だよ」

長いトランペットの演奏が終わり、歌のパートになるとおけいちゃんはしわがれ声でラジオと一緒に歌まねをした。

「ラビアンローズ?」健ちゃんがおけいちゃんに訊いた。

おけいちゃんは応えないで気持ちよさそうにのどをつぶしたように唄った。完全に酔っぱらいの演歌という感じもしたが、しっかりそれらしい雰囲気を出している。歌詞の中身は分からないが黒人の魂の叫びとかだろうか。首を左右に振りながら口をひくひくしながら苦しそうだった。あまり苦しそうなのでもうやめたらいいと思ったとき歌が終わり大げさなトランペットのエンディングになった。わたしは思わず拍手した。

「おけいちゃんって体つきがアームストロングに似ているね」健ちゃんが言った。

「ありがとう、声は?」

「声も」わたしはその時聞くのが初めてだったがそう断言した。いや、わたしはほんとうにしびれた。

「いい観客だ」とおけいちゃんはいった。

「なんで上手なの」

「いや、基地で働いていたからな」

「米軍の」

「まあ、そうさ」

続いて英語のアナウンスが始まった。相変わらず早口で何を言っているのか皆目見当が付かないがおけいちゃんは頷いていた。

アナウンスが終わると今度はカントリーアンドウエスタンの曲が流れ出した。ハンク・ウイリアムズだとか、ハンク・スノウの渋い歌声が続いた。そして誰が歌っているのか知らないが「思い出のグリーングラス」が流れた。

「故郷はいいなあ」曲が終わるとメロディを口ずさみながら健ちゃんが言った。

「でも東京生まれで、田舎なんかないじゃないか」わたしが言うと「いや、一般的な話だよ」と変な言い訳をした。

「おまえら、この歌の意味知ってるのかい」また、おけいちゃんが話しに入り込んできた。

「故郷のみんなに会いに帰るんだろ、やっぱり生まれた土地の緑はいいなあって」健ちゃんが優等生的に答えた。

「そうだけど、みんな夢なんだ」

「ゆめ?」

「本人は牢獄の中さ」

「けど、ジェイルなんて歌詞は聞こえなかったよ」

「直接の言葉はないけど、わかるだろ」

「ぜんぜん」健ちゃんもお手上げのようだった。

「看守と神父がでてくる、夜明けに彼らと一緒に歩いていくってことは、死刑が執行される直前だな」おけいちゃんは当然だというような顔をしてうなずきながら、ちょっと臭い感じで説明を続けた。わたしは電池の消耗を避けるためラジオのスイッチを切った。

「かわいそうに、なにしたの?」

「そんなの知らないけれど、死刑なんだからよっぽど重い罪を犯したんじゃないのか」細かいこと聞くなという気持ちがありありした表情をした。

「人殺しとか?」

「まあな」

「でも悪いやつじゃなさそうだし」

「過失だったのかもな」

「過失って」

「故意じゃなくて誤って誰かを殺しちゃうとか」

「それでも罪になるの?」

「場合によるだろうけれど」わたしは不安になってきた。わたしは健ちゃんに向かって小声で訊いた。

「わたしたちの事件でも、誰か死んでいたら死刑になるかな」

「事件って、今日のことか?」

「うん」

「まさか、子供は死刑にならないんだよ」

「でも、このあいだ、少年死刑囚ってテレビでやってたよ」

事実、わたしはそのテレビを見てから恐ろしくて寝付けない日々か一ヶ月も続いたのだ。子供が大人を殺す物語で、殺人のシーンは障子に影が映って、刺し殺す瞬間血しぶきが障子に飛んだ。

「テレビでは、子供は最後に死刑になったと思ったけど」わたしは主張した。

「あれは、作り話」

「でも」反論するわたしの言葉を遮って。

「じゅん、おまえ意外と心配性だな」健ちゃんが諭すように言った。

おけいちゃんがウイスキーを飲み込む音が聞こえた。

第四節          クジラの死    21木

わたしはまたラジオのスイッチを入れた。FENからほかの番組にチューニングをしているとNHKのニュースが入ってきた。その日は池田内閣の経済政策がどうかとか、日米安保条約がどうのこうのという政治ネタばかりだった。全国ニュースのあと関東地方のニュースに切り替わった。小河内ダムの水不足の話題に続いてアナウンサーの声からは信じられない言葉が聞こえてきた。

「昨日午後七時ごろ東京都豊島区の大塚駅構内で文京区大塚坂下町の小学六年生、鯨岡祐二君一三歳が山手線の電車に轢かれ大怪我をしました。鯨岡君は都立大塚病院に運ばれましたが重体です。巣鴨署の調べでは、鯨岡君は工事中の空蝉橋から電車線路に入り込んだため入ってきた内回りの山手線電車に跳ねられた模様です。なお、目撃者によると鯨岡君は空蝉橋の崖から構内に入り込み線路を横切ってホームに上がろうとしたところを跳ねられたとの証言もあり事故として調べを進めています。この事故のため山手線は一時間ほど運休しました」

だいたいそんな内容だった。第一に驚いたのは自分の友達の名前がラジオで告げられたことだった。そしてそれがニュースの中でである。さらに付け加えるとクジラが電車に轢かれたということについてだった。わたしの聞き違いだと思って健ちゃんの方を振り返った。

「聞いた?今のニュース」

「ああ、間違いなさそうだな」

「そんなバカな。あいつ逃げたはずだよ」

「確かめたのか?じゅん」

「そうゆうわけじゃないけど。クジラが轢かれる分けないじゃないか」

「でもあいつはホームへ逃げた」

「ちょっと待ってよ、きっと何かの間違いに決まっている」わたしにはそんな事実を受け入れる度量も余裕もなかった。

「おまえさんの知り合いかい?」おけいちゃんが訊いた。

「知り合いって、さっきまで遊んでいたヤツだよ。きっと人違いだよ」わたしは信じたくなかった。クジラはホームに逃げた。たぶんホーム池袋側の先端の階段から上がり、ほかの乗客に混じって逃げたのに違いない。轢かれたのは誰か違うヤツだ。どうしても納得がいかなかった。

「きっと誰かほかのヤツの間違いだよね、健ちゃん」わたしは同意を求めた。

「でも、ラジオでははっきり小学生の鯨岡って言ってたな」

「だって、あいつにぶいけれど、そんなへまやるヤツじゃないよ」わたしは懸命にクジラの事故を否定できる材料を探していた。

「事故だって言ってたな」おけいちゃんが冷静にラジオの原稿でも読むような調子で言った。

「ああ、電車なんか、突っ込むか、押されるかしなければ轢かれるもんじゃないよ。クジラのヤツどうしたんだ」健ちゃんは下を向いて腕を組んだ。

「もうだめだよ。交番に行こう」わたしはすべてに嫌気がさして健ちゃんに懇願した。

「鯨岡のヤツ、死にはしないよ」健ちゃんがそう言って縁の下の土を一握り掴み漆喰にぶつけた。電池がなくなったのだろうか、放送が終了したのだろうかラジオからの音声はいつの間にか消えていた。

クジラは大丈夫だろうか。何度も何度も同じ疑問が頭の中を反射して繰り返された。繰り返される疑問の答えが出ないことが分かると、今度は頭の中に大塚病院の地下で何人もの子供が神妙な顔をしてクジラの死体を運ぶ場面が連続して映し出された。

「世の中受け入れなくちゃいけない事実がほとんどだ」おけいちゃんが言った。

「事実かも知れないけれど信じられない」わたしは微かな声で呟いた。

「別に信じなくたっていいさ」

「でも」

「受け入れて行動するしかない」

「そんなことできないよ」

「オレもそうだった、受け入れられなくてこのざまだ」

「おけいちゃんが?」

「まあ、いい。オレは御陵に帰る。おまえたちも帰れ。そして事実を受け入れて行動するんだ」

「どうやって?」

「常識に従って」

「具体的には?」

「簡単だよ。家に帰って親の教えに従う」

「なんだ」

「それが大人の常識ってもんだ」

「もう帰りな、夏の間はいるからまたおいで」おけいちゃんが言った。

「ああ、鑑別所行きじゃなかったらね」健ちゃんの変な冗談にわたしは本気でおびえた。

「いいかい焦ることはない。おまえたちには時間はたっぷりある。常識に従ってな、ゆっくりやるんだ」そう言い残しておけいちゃんはお墓の方に帰っていった。

おけいちゃんの大柄な後ろ姿を見ていると、夜明けとともに去るドラキュラみたいだなとも思った。

「帰ろうか」健ちゃんがぽつりと言った。

「どこへ?」わたしが訊いた。

「とりあえず、自分の家さ」当たり前の答えしか返ってこなかった。

「うん」

おけいちゃんの姿も森の中に消えたきりもう出てくることはなかった。これから始まる夏休みでわたしはいろいろなものを失うような気がした。得るものはあるのだろうか、その時までの出来事をすべて消去して新しく始めたかった。それまでのすべての出来事が幻想であってほしいと思った。そしてクジラが死んだというニュースも誰かのとんでもない勘違いであってほしいと祈った。

第五節          卒業       21木

クジラは次の日の夜に死んだ。ほとんど即死に近い状態だったそうだ。わたしのわずかな希望は絶たれた。彼の死は無理な線路の横断による事故として扱われた。家族の意向とかで葬式は親戚のみでひっそりと行われたらしい。結局あの日、崖下へ落ちていく姿がクジラを見た最後だった。

住友は崖から転落して肋骨を折り都立大塚病院に入院し、退院したのは夏休みの終わる寸前だった。健ちゃんはケンカして刃物で相手を傷つけた罪で警察に捕まった。少年院に行かされることは免れたけれど保護観察処分になった。ケンカのことで父親が激怒し全寮制の中学へむりやり転校させられた。久美ちゃんは夏休みが始まってほどなく母親と英国に発って行った。わたしといえば幸いケガも補導もされなかったは警察から何度となく調べに呼び出され、校長室で何人もの教師から母親と一緒に大目玉を食った。学校はこの事件の処理のため長いあいだ混乱していた。

深沢は健ちゃんに刺された傷で入院した。傷は軽いようだったが、窃盗とその他の余罪が見つかり少年院に移送された。豊島小学校のグループはその場は逃げおおしたが、深沢の証言から芋ずる式に補導され警察で調べを受けた。ブリキ缶の財宝は深沢と中学の不良グループが万引きをした品物で、すべて警察に見つかり押収されてしまった。小川たちは深沢から品物を隠すことを依頼されただけのようだった。

夏休みは瞬く間に過ぎ二学期はだらだらと過ごした。クジラがいなくなってからは住友と遊ぶ機会が少なくなった。富田は相変わらずどのグループにも入らず狡猾に活動していた。しかしそんなことはわたしにはどうでもいいことだった。仲間を裏切った富田を恨む気持ちもあまりなかった。わたしは毎日勤勉を装い部屋に引きこもって音楽を聴き、本を読み耽る生活が続いた。いや、事実勤勉だったかも知れない。これまでのように仲間と外で遊び歩いたり万引きをしたりすることも全くなくなった。親の監視も少しきつくなったこともあるけれどあの事件以来、むかしの遊びには興味を失っていった。何年も忘れていた机の前に向かう感覚もよみがえってきた。秋口になって久美ちゃんから連絡があった。ヨーロッパはもう寒さが厳しくなっているらしい。風景がすばらしい絵はがきに青いインキがにじんでいた。絵はがきはいつものペン習字の美しさと丁寧さでかかれた文字で埋められていた。

「じゅんちゃん元気ですか。こちらは寒くてもう冬支度です。でも景色が良くてすばらしいところです。しばらく帰れないと思うけれどクラスのみんなによろしく。さようなら」そんな内容だった。

そして卒業の時期が来た。次の年は同じ公立中学に進学して楽しくやるはずだったが、みな異なる進路をたどることになった。クジラは死んでしまったし、久美ちゃんはロンドン郊外の日本人学校だ。住友は二学期からは野球をやめ、受験勉強に入り兄と同じ名門の私立中学に入学した。仲間のうち、わたしだけが予定通り地域の区立中学校に進学した。中学も相変わらず家から遠い道のりだった。希望を持って進学するという気持ちにはならなかった。新しい友達を作ろうという意欲もなかった。いつまでたっても喪失感はぬぐい去れなかった。おまけにその日の行動を毎日日記に書けと母親から言われ戦利品のモンブランと以前に文房具屋で万引きしたインクで書き綴った。そのおかげで毎日ものごとを内省する癖がついてしまった。

外ではしゃぐ生徒たちを幼いと思い、自分は違うと思うようになってきた。明らかにわたしは変わろうとしていた。毎日の生活には希望は持てなかったが、そのうち必ず何か生産的なことが出来るようになるという確信もあった。少し大人になったような気分を感じた。

「焦ることはない時間はたっぷりある。常識に従ってゆっくりやる」そう言ったおけいちゃんの言葉が何故か頭に残って離れなかった。たぶんあの夏の出来事は一生忘れないだろう。あのときの仲間たちはみんな好きだった。

 

第八章          通夜の席

第一節          通夜の珠恵さんとの会話

ずいぶん冷え込んできたと思っていたら小雪が北風に舞っている。空蝉橋にはどれくらい立っていたのだろうか。身体が芯から寒かった。わたしはコートの襟をもう一度立てて防備し、ポケットから手袋を取り出して着用した。腕時計を覗くと通夜の始まる時間はとうに過ぎていた。会場に向かい歩き始めたが、もう一つ確かめることがあることに気がついた。子供のころ発見したあの硯石だ。わたしは欄干まで戻り、薄暗い光の中に変形した硯石を探した。思っていたより目立たなかったが、石は黒く鈍い光を放ってそのままの形で張り付いていた。ぼくは手袋を外し硯石に触った。冷たくざらついたその感触は今までの記憶が確かだったことを裏付けているように感じた。自分でも意味のないことをやっていると感じざるを得なかったが、一つの儀式とでも言うのだろうか。過去とのつながりが確実になって心が落ち着くように思えた。

わたしは覚悟を決めて、久美ちゃんの眠る通夜会場に向かって歩き出した。

斎場の入り口にはたくさんの花輪が整然と並べられていた。中にはいると受付に人はいなかった。コートを脱ぎ香典を用意していると中年の婦人が出てきて記帳を勧めた。香典を渡し記帳をしたあと、数ページ繰ってみると知った名前がちらほらあった。祭壇に行くと時間に遅れたせいか僧侶の読経や喪主の挨拶も終わったようで弔問客は誰もいなかった。

独りで焼香を済ませ親族に挨拶をした。喪主は健ちゃんだった。健ちゃんは下を向いたまま黙礼して顔を上げた。わたしに気がつき少し驚いたようにして何か話したそうにしたが、その場でまた深くお辞儀をした。奥の部屋に進むと、そこでは弔問客が集まって酒を飲みながら通夜ぶるまいのサンドイッチや寿司をつまんでいた。時間が経っているせいか、かなり酔いが進んでいる客もいる。入り口付近に座ると珠恵さんがすぐにわたしを見つけて近寄ってきた。

「じゅんちゃん、忙しいのによく来てくれたわね」労うように優しく声をかけてくれた。珠恵さんの頭はすっかり白くなっていたが気丈そうで優しい。

「ご無沙汰してます。元気そうですね。信州にも遊びに来てください」わたしはもっと親しく話したかったが型どおりの挨拶をした。

「このたびはご愁傷様でした」わたしは座り直し深く頭を下げた。

「そう、急だったんでね。私もびっくりしているのよ。久美ちゃんとは義妹以上の仲のつき合いだったんだけど。じゅんちゃんも小さいときからの仲良しだったもんね」珠恵さんは相変わらずわたしを小学生のように扱う。全く昔と変わっていない。

「結局、どういうことだったんですか?久美ちゃん」わたしは話を切り出した。

「事故なのよ。駅前のホテルあるでしょ」

「ええ、来るとき見ました。窓に灯りがあまりついていなかったけど」

「景気がいいときに健ちゃんが建てたのよ。今じゃ客が入らず苦労しているけど。あそこの最上階が住居だったんだけれど」

「そうなんですか」

「洗濯物を取り込んでいるときにベランダから落ちて」

「えっ?」わたしは初めて久美ちゃんが亡くなった理由を聞いた。

「病気じゃなかったんですか?」

「転落事故だったのよ」

「ほんとに?」わたしはなんと返事していいか判らなかった。その先の言葉は出なかった。子供じゃあるまいしベランダから落ちるなんて考えられない。

「突然だったから、健ちゃんも大変よ」

「あとで健ちゃんと話ができるかな」

「ええ、わたしが呼んでくるから待っていて」

「はい、いろいろすいません」

「じゅんちゃんの知っている弔問のお客様も来ているはずよ。奥にも行ってみたら」

「珠恵さん、そのことなんだけれど。クジラ、いや、白いジャンパーを着た小柄な男が来ませんでしたか?」

「ジャンパーの男?」

「白いスタジアムジャンパーで、野球帽で」

「ああ、たぶんあの男のことかな?来たわよ」少し考えてから珠恵さんは言った。

「ほんとに?」珠恵さんがあっさりと放った言葉にわたしは飛び上がりそうになった。死んだはずのクジラが来るはずはない。

「野球帽を深く被っていたんで顔は判らなかったけれど」

「それで、どんな様子でした?」

「なにかとても気持ち悪い人で、受付も無視して焼香だけしていったようだけど」

「何か話していきましたか?」わたしの口からは質問ばかりが突いて出た。

「いいえ、何も様子がおかしいから香典泥棒かと思って、注意していたんだけれど。だいたい野球帽をかぶったままお焼香をするなんて非常識よね」

やはりあの男は通夜に来たんだ。でも本当にクジラだったのだろうか。そうならば誰かに挨拶するだろうし。珠恵さんは知らなくても健ちゃん彼を知っている。

「その人じゅんちゃんの知り合い?」

「いや、駅で会ったものだから同級生に似ていたんだよ。だから久美ちゃんの通夜にきた客かと思ったんだけど」

「じゃあ、誰なの?」

「いや、その人、落とし物をしたみたいなんで届けようとしたんだけれど」わたしは脱ぎ捨ててある自分のコートにしまったマフラーを取り出そうとポケットの中をまさぐった。しかし、コートのポケットの中にはタバコとライターがあるだけだった。手袋を取りだしたときに落としたのだろうか?

「そうなの、じゃあ失礼しちゃったわね」

「はあ」

「名前は?健ちゃんに言っておくわ」

「いいよ、ぼくの勘違いかも知れないし」証拠のマフラーが見あたらないので自信がなくなっていた。

「まあいいけど、ゆっくりしていって。あたしもう少し向こうに居なきゃいけないから」珠恵さんはそういって祭壇に戻っていった。やはりあの男は来たのだ。でもそれがクジラかどうかは分からない。死んだ人間が来るわけもない。クジラが生きていたとしても、ここに来る理由も理解できない。そして久美ちゃんが死んだ理由もわたしには理解できなかった。人の死などはみな理解なんぞ出来ないのかも知れない。

久美ちゃんは父親の赴任先のロンドンから帰ったあと、しばらく日本の大学に通っていたが卒業を待たずにアメリカのイエール大学に留学した。そしてアメリカ人男性と結婚したがすぐに別れてニューヨークで一人暮らしを始めた。

健ちゃんは学校を卒業したあと広告会社に勤務していた。けれどもサラリーマンは性に合わなかったようで、定職に就かず親父さんの不動産の仕事を手伝ったり、音楽の勉強をしたりしていた。ニューヨークにジャズを聞きに行ったとき久美ちゃんに旅程をコーディネートしてもらった。それ縁でつきあいが深まり、意気投合して大恋愛の末結婚した。二人に子供はなかったがずっと仲のよい夫婦だった。わたしも独身時代には二人にずいぶんとお世話になった。久美ちゃんのことはわたしも好きだったが女性として愛する気持ちはなかった。それに健ちゃんは尊敬していたし、二人のような夫婦になれればと憧れていた。今でもその気持ちは同じだった。健ちゃんの親父さんが亡くなったあと家業を引き継ぎ事業に成功して地元の再開発を一手に引き受け会社を大きくしていた。地域の商店街の役員もやっていたし区議会議員にも当選した。すべて順調にいっていたと思っていたのだが、その矢先の急な事故だった。

第二節          旧友

周りを見回すとほとんどが見知らぬ人だった。ずっと会う機会がなかったためにすぐには誰か判別がつかないのだろう。宴席の奥に進んで座りコップをとり自分でビールを注ごうとすると、隣に座っていた中年の女性が話しかけてきた。

「もしかして、木村潤君?」

「ええ」わたしはビールを注ぎながら答えた。

「やっぱり、少し太ったね」急になれなれしくなり、厚化粧の顔を近づけてきて、わたしの手からビール瓶を強引に奪いとった。

「すいません。どちらさまでしたっけ」

「私そんなに変わったかなあ。当ててみたら?」そういいながら注いだばかりのコップにまたビールをつごうとした。

わたしにはその顔は全く見当がつかなかった。しかし、声の調子にはかすかに聞き覚えがあった。ちょっと甲高い、屈託のない明るい調子。

「そうか、関さん?関順子さん」

「あたりー、まあ飲んで飲んで」

「すみません気がつかなくて。いやー、すっかり奥さんになっちゃったもんだから。いや、上品な奥さんていうか」

「じゅんちゃんと会えるなんてうれしいわ。でもこんな所でなんて」

関さんは急に暗い顔になった。久美ちゃんのことを思いだしたらしい。

「みんな来てたのよ。帰ってしまった人もいるけど。住友君とか富田君とか」

「住友、富田?何十年ぶりだろう。会いたかったな」注がれたビールを飲んでいるうちに、身体が弛緩状態に陥り始めた。

関さんと話し込んでいると健ちゃんがやって来た。

「じゅん、元気そうだな」そう言ってわたしの隣に腰を下ろした。疲れ切っているようだったが声には張りがあった。しかし顔にはいくつもの深いしわが刻まれ、以前のはつらつさはなく仕事に疲れた中年男という感じだった。リーゼントで決めていた髪はこぎれいに短く分け実務型に変わっている。わたしはかしこまって正座をした。

「このたびは・・・」

「やめろよそんな挨拶。遠くから悪いな」

「いや、新幹線ができてからはすぐだよ。弁当を食べてる間もないよ」

「ああ、そうだな」

「祭壇の方はいいの?」

「ああ、もう弔問客も来ないようだし」

「十年ぶり・・・ぐらいですかね」

「おまえも年とったよな。部長さんだって?」

「それより、久美ちゃん、なんで・・・」

「急なことだったんだよ」健ちゃんは赤くした目をこすりながら言った。

「事故だったんだ。久美子のやつとても疲れていて何かにおびえていたみたいだけど」

「どうして?」

「精神的に参っていたのかなあ」

「すべてうまくいっていたって聞いてたけど」

「ああ、おととしまでは」

「それまではよかったの?」

「うん、駅前のホテル知ってるか?」

「知ってる。立派だよね」

「豪華だろ。あれおととし完成したんだ。結婚式だってできるようにした。あそこの一三階にオレの城がある」

「すごいよね」

「あれはオレの夢だった。おまえと遊んでた頃は楽しかったな。あのころオレは学校でも町内でも厄介者だったよな。じゅんは例外的にオレのことを慕っていてくれたけど。誰も認めてくれなかった。でもオレには変な自信はあったんだよ。今はぶらぶらしていてもそのうち何とかなる。そのうち身体の内部に溜めたエネルギーを爆発させてやる。そこらのへなちょこやろうどもに一泡噴かせてやるってな。オレの方が遙かに上等な人間だということを思い知らせてやるんだってな。学校の先コウや商店街の奴らを見返してやりたいってことだよ。親父とはずいぶんケンカしたけれど、今思うと感謝しているよ。財産だって少しは残してくれた。借金もあったけれどトータルで言えば黒だったし。オレが若いとき遊んでばかりだったけれど大目に見てくれていた。ニューヨークで食い詰めそうになったときには送金してくれた。けれど親父のやってることは小さいんだ。サラリーマンには限度があるよ。じゅん、判るだろ。だからオレは独立した。親父の借金を返しながら思ったんだ。オレは勉強が出来ないって言われたけど、商売の才能はあるって。それに久美子が一緒だったら何でも苦労できると思った。おまえなら判るだろ。久美子の気の強さと行動力のものすごさ。楽しかったな、朝食のとき一緒に計画を立てる。そして実行する。すると夕方にはその通りになる。その繰り返しさ。だから金も貯まる。何も考えずにがむしゃらにやってきた。そうしてやっと夢が叶ったんだ。地元にでかいビルを建てる。だから大塚の駅前の土地を買い占めた。それであのホテルを建てた。オープンの日には都知事だって招いて盛大にやった。結婚式だって、芸能人のパーティだって、株主総会だって出来るさ。ちょっと大塚って場所は地味だけど、立派な駅前のホテルだ。それでペンタハウスだ。最上階にすむのが夢だった。池袋までの線路が見渡せる。新宿のビル群だってお見通し。大塚駅のプラットホームが見える。貨物列車の通るのが見える。なんならゆっくり葉巻をふかしながら貨物列車の数を数えることだって出来るんだぜ。天気のいいときは富士山だって、東京タワーの頭が少し見える。そこからすべてをマネージメントする。でも久美子は少し違っていた。そんなの厭だってんだ。もっと普通の小さなマンションに住みたいって。そこで子供を育てたい。そんなこと言ったってオレたちには子供は居ない。オレと一緒になる前、久美子の身体はニューヨークの初めの結婚でめちゃめちゃになってしまっていたんだ。とんでもない家庭内暴力男だったんだ。住処がわかればニューヨークでもニューロンドンでもオレはすぐに飛んでいってぶち殺してやる。もう子供はあきらめていた。だから久美子には何でも好きなことをやらせてきたつもりだ。でもあそこに移ってからすべてがおかしくなった。それでも最初の一年はよかった。二年目からホテルに客が全く来なくなった。このままだと借金が返せなくなる。オレは焦ったよ。そんなこんなで久美子に当たったかも知れない。迷って女遊びも少ししたさ。でも浮気じゃない。言い訳じゃないけれどこれは本当だ。信じてくれ。最近の久美子の口癖は昔に返りたい。あんた何とかしてよって。こればっかりだったよ。オレはどうせ女の更年期障害だろうと高をくくってた。でも少し様子が違った。先祖帰りってんだろうか、インファンテリズムというのかものすごく子供っぽくなるんだよ。だからじゅんと遊んでいたときのこともよく話していた。そしてまた昔に返りたいさ。オレは場所がよくないのかとも思った。あそこはオレたちの子供の頃からの遊び場だったよな。思い出しちゃうんじゃないかと。だからまた外国にでも引っ越そうかとも思ったよ。でも今のオレにはそんな余裕はない。借金を返すことで頭がいっぱいだ。外国旅行だって出来ないんだ。新規事業なんかも考える余裕がない。本当に久美子の助けがほしかった。アイディアがほしかったんだ。でも久美子にはあの前向きに進んでいく引きつけるエネルギーはもうなかったんだ。すべてが後ろ向きだ。そうやって、ここ一年はすべてが悪い方に転んでいった。ついに久美子は一三階お部屋にこもりきりになった。医者は一種の鬱病だと言っていた。だから薬も飲んでいて最近は少し調子がよくなってきていたのだけれど。掃除や洗濯なんかもしてたよ。それで少し安心してたらこんなことになっちゃって。それで昨日の事故。最悪だよ。たぶん事故なんだと思う。それ以上は考えたくはないけどな。じゅんおちついたら今度、ゆっくり遊びに来いよ。もっと話したい。久美子のところに行かないか?」健ちゃんは立て続けにしゃべると祭壇にわたしを誘った。

「うん、会いたい」

いつかといえばわたしは小学生の時の久美ちゃんと、ロンドンから帰ってきたときの久美ちゃんに会いたかった。はつらつとしていて、聞いてるわたしをその中にのめり込ませる。女の子というよりお話のお姉さん。ぐいぐい相手を引きつけていく。ロンドンやリバプールの話は知識の安売りじゃなくて、ぼうけんダン吉の少女版のように活力があって新鮮な話ばかりだった。棺の中の久美ちゃんはおだやかで、満足そうな顔をして目を閉じていた。

「久美ちゃん相変わらず美人だね」お別れをしてから健ちゃんに言った。

「そうだ、おまえにも形見分けをやろう」

「いいの?」

「ひしゃげたビー玉、それにインディアンターキーの指輪」

「ビー玉?」

「ああ、ゴーグジで、おまえ、餞別にやっだろ」

「あんなもの?」

「ああ、久美子に言わせるとものすごい宝物だったそうだ」

「なんでかなあ、確かにぼくも好きなビー玉だったし。よく覚えているよ」

「指輪はオレがニューヨークで買ってやったもの、これも彼女の愛用品だった」

「悪いよそんな高級なもの」

「いいさ、オレにはもっとたくさんあるからとっとけよ」

「すいません」

「おまえも久美子のこと好きだったんだろ」

「いや、ぼくは別に好きとかじゃなくて・・・」

「どっちでもいい。オレはおまえにやりたいんだ」健ちゃんはそう言うとおしぼりで顔中を拭いた。そして祭壇に向かい何度も手を合わせた。

第三節          終章

久美ちゃんは本当に事故死だったのだろうか?クジラだと思ったあの男は誰だったのだろう?いつまで考えても答えは出ない。わたしは健ちゃんからもらったガラスのタマネギの形見分けをもう一度握った。久美ちゃんがロンドンに発つときわたしが記念にあげた餞別だ。これを久美ちゃんにあげた日、つまりクジラの死んだ日、健ちゃんも護国寺の縁の下にいた。わたしのために何かないかと形見を探してくれたそうだ。久美ちゃんはずっと持っていてそれを見ながら昔話をしたという。わたしはビールと日本酒をかなり空け相当に酔っていた。時計をみると午前零時を少し回っていた。わたしはひしゃげたビー玉をポケットに入れ帰宅の準備をした。

「泊まっていったら」

「いや、しばらくぶりの上京だから、実家に帰らないと」

「電車まだある?」

「ちょうど山手線の最終には間に合うかな」珠恵さんが時刻表を見ていった。

「もう歩けそうもないから、車呼んでくれますか」

「わかったわ」

「健ちゃんこのたびは・・・」

わたしは、定まらない視線を健ちゃんに浴びせながら最後のお悔やみを言おうとしていたがろれつが回らなかった。タクシーが来た。健ちゃんと珠恵さんに送られタクシーに乗った。

「新宿まで」わたしは家族の待つ実家の場所を告げた。

車は池袋を抜け明治通りに入った。タクシーのラジオからはオールディズの音楽が聞こえてきた。わたしはまたクジラのことを思い出した。そして彼はまだ生きている用に思え、無性に会いたくなった。

「すみません、引き返してくれますか?」

「どちらへですか」運転手の怪訝な顔がバックミラーに映った。

「大塚駅まで」

まだ、山手線の最終に間に合うだろう。大塚駅にいけばクジラに会えるかも知れない。会って本当の話が聞けるかも知れない。無駄でもいいから行ってみたかった。そして電車に乗ろうと思った。きっと何処か行き先が表示されている山手線に乗れるだろう。

(了)

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