一日のはじまりがはじまる

「一日のはじまりがはじまる」と頭の中で何度も繰り返し、ボクはベッドからのそのそと起き上がった。身体は惰性で動かしているが、頭の中の大部分はまだ眠りから覚めていない。

明け方にいつもの夢を見た。ずいぶん昔に別れたFに逢った。それは忘れた頃に突然、前触れもなく現れる。唯一心が許せた人が目の前に現れる。手を伸ばし語りかけようとすると自分の手の届かない遠くへフェードアウトしていく。切なくて藻掻くような感触だ。目が覚めるといつも汗だくで皺くちゃのシーツにやるせない気持ちが散逸している。そんな朝は気持ちの落ち込みは激しく仕事が手につかなかった。しかし長い時間経過と規則的な日常生活がボクにある種の落ち着きを与えてくれている。寝起きの混濁を手際よく現実に切り替えることに時間はかからなくなってきていた。

カーテンを勢いよく開けて朝日を浴びる。強い直射光が開きっぱなしの瞳孔を刺激する。片目だけ微かに開いて顔をゆがめながら洗面所に行き、まだ何も食べていないけれども歯を磨く。冷たい水で顔を洗い、大きめのフェイスタオルを顔と頭に昆虫のような仕草でぎこちなく擦り付ける。頼りない足取りで居間に行き、もたれ掛かるようにソファに身体を沈めると、娘の絵美が朝食代わりのコーヒーを入れてくれた。やわらかい香りがボクの身体をつつむにつれて明け方の夢の残骸が丁寧に頭の隅に片付けられ、寝起きの硬直状態からゆっくりと回復していく。テーブルにつきコーヒーを一口すする。すきっ腹の胃壁が鋭く反応し一気に目が覚める。

「昨日の夜帰ったときは、すべては順調のように思えたんだよ、絵美ちゃん」ボクは同居人に話しかけた。

絵美は牛乳の入った背の高いグラスとレタスの中に赤いピーマンをたくさん盛った皿、それに小さなバナナをひとつテーブルにならべていた。

「相当酔っていたよ。お風呂も入らずに寝ちゃって。具合でも悪いの?」バナナを頬張り牛乳を流し込みながら絵美が訊いた。

「また、元に戻ってしまって」朝方の夢による落ち込みだなんて絵美にも分かってもらえないだろうとボクは思った。

「きのうは飲んでご機嫌だったということでしょ。酔いが醒めれば元に戻るのは当たり前じゃない?」絵美は蔑んだような表情で父親の顔を見た。こんなときに満面の微笑みでいたわってくれるとありがたいのだが、既に成人した娘には望むべくもない。

「そんなに飲まなかったけれど、みんなで歌って楽しかった」そういってボクは絵美の肩に手を置いた。

「昨日は良かったなんて、またイエスタデイでもやったの?」ぶっきらぼうに言ったが、絵美の口の中にはバナナの塊が入ったままでほっぺたが膨れている。生意気な口のきき方に反比例した愛らしい小顔をみているとそれだけでボクは少し癒された気分になる。

「まあね。今朝は寝起きがスッキリしないんだよ」

「どうせ変な夢でも見たんでしょ。朝方よく魘されているよ」絵美はボクの言葉には全く取りあわなかった。

「胸に手を置いて寝ちゃだめだっていつもママが言っていたでしょ」絵美の言葉には随所に妻からの忠告が投影されている。

絵美は自分だけ朝食を済ますと手早く食器を片付けた。身支度を整え、バッグの中から小粒の錠剤を取り出して口に放り込んだ。

「何の薬?どこか悪いの?」

「頭痛薬よ、パパも欲しいならあげるよ。あたしも忙しくて大変なんだから。自分のことは自分で解決して、お願い」

「頭は痛くないし、二日酔いでもない。薬なんかいらない」ボクは娘の助けなど不要であることを宣言した。

「わたしもう会社に行くから、戸締まりよろしくね」そう言うと玄関の鏡で自分の姿を確認してからもう一度口紅を直し慌ただしく出かけていった。

娘を送り出し玄関の鍵を閉めて居間に戻り、新聞をパラパラとめくりながらタブレットでメールと今日の予定を確認した。一息ついた後、バスルームに向かい熱いシャワーで昨日から身体に染みついていた汗とタバコの臭いを洗い落とす。クローゼットから綿のシャツとジーンズ、プルオーバーのウールのセーターを取り出して着替えを始めた。会社を辞めて独立したことを肯定的に感じる瞬間だ。一日でも画用紙みたいな素材のワイシャツと湧き出るアイディアを喉元で堰き止めるネクタイから解放されたと思えるのだ。

彼岸も過ぎ桜の便りも聞くようになってきたがまだ寒さは厳しい。ベランダに出てみると、乾燥しきった北の蒼空から寒風が抜けてくるような晴天だった。ボクはサングラスとニューヨークヤンキースの野球帽、防寒ジャンパーと手袋を装着し、ビジネスバッグを背負って玄関を出た。階段を降りて自転車置き場に向かい古びたママチャリにまたがった。

ボクが妻の久美子と別居してから三年が経つ。二十年以上勤めていた会社を辞めたのがきっかけだった。形の上では円満な依願退職ということになっていたが、辞めた理由はいくつかあった。起業して自由な仕事がしたかったこと、実力を試したかったこと、上司とのトラブル。そのほかに付け加えるとすればごく穏健な女性問題というところだろうか。

ボクはいわれもないセクハラ疑惑と簡単に考えていた。一方、妻は浮気による不祥事が原因の退社として深刻にとらえていた。疑いをかけられた自分が被害者だと言うことを幾度となく説明しても理解は得られなかった。久美子は学生時代からのつきあいで温厚な性格だったが今回は引き下がらなかった。ボクは自分に非がないと信じていたので謝るつもりはなかった。結局話し合いもこじれて、ボクは家を出ざるを得なくなり、近くの目黒区内に1LDKのマンションを借りて別居生活が始まった。

長男は中学生だったため妻と自宅に住むことになった。長女の絵美は通う短大が近いこともありボクと一緒にマンション暮らしを始めた。絵美は一緒に暮らしてボクの世話をしつつ、妻からの遠隔操作で生活を監視しているようだった。現実に絵美は世田谷の自宅と別居のために借りた目黒のマンションとを自由に行き来していた。この間に絵美は学校を卒業して社会人となったが、そのまま娘との二人暮らしが続いてる。

マンションを出て駒沢公園を抜けて走る。この時期、公園西口のケヤキ並木はまだ葉をつけていないが、もう一か月もすれば新緑の季節になりもっと深呼吸も気持ちよくできるだろう。犬をリードで繋げた散歩人や息の荒いジョギング人をよけながら進んでいくと桜の木がほんの少し芽吹いているのがわかる。老人カップルが写真を撮っていた。ボクも自転車を降りてバッグから小型デジカメを取り出して、桜の蕾みを写しまた走り出した。季節ものの写真は仕事やブログで使えるので何でも撮り貯めておくのが習慣になっている。だれでも何かを撮っていたら野次馬のように興味を示して相乗りする。通勤区域にはいくつかの定点観測地点も持っている。

自由通りに出て国道二四六号に入る。環状七号を渡り三軒茶屋まで緩い坂を下って行く。人通りが多い歩道を歩行者の足取りを確認しながらゆっくりと進む。暫く走り三宿の交差点を過ぎると川下さながら通勤自転車の数も多くなってくる。緩い下り坂も終わり池尻大橋に出るとインター近くに高層マンションが見えてくる。以前入居を考えてこの高級物件の空き部屋を見学したことがある。子供たちの独立後のことを考えて移り住む計画もあったが、妻との別居により家族で話題にもならなくなった。現状を考えると購入しなくて良かったとボクは思った。

目黒川を渡ると神泉町まで急坂を登る。いつまでペダルを踏んでも頂上に着かない。後ろからは電動アシスト自転車の連中がさげすみの目でボクの自転車を見ながら追い抜いていく。サラリーマンに抜かれ、OLに抜かれ、学生にも抜かれる。後ろから押されるような風を感じて、頭を上げると制服姿の女学生が勢いよくボクを追い越していった。オーデコロンの微かな香りが後を引いていた。こんな少女に負けてたまるかというような感覚がこみ上げてきて、さらに力を入れてペダルをこいだが、しだいに距離は離され神泉の交差点に着いた頃には既に後影もなかった。

ボクは自分の体力の衰えを痛感させられた。「まあいいさ、メタボ解消にもなるし、毎日のバス代が浮く。スポーツジムのトレーニングマシンの代わりだと思えば全く苦にならない」ボクはそう言い聞かせて自分を納得させた。坂の頂上まで来るとうっすらと額に汗をかく。上腿とふくらはぎの筋肉痛が気持ちいい。身体の内側は熱くなっても顔に当たる風は冷たい。改めてジャンパーのファスナーを首の根元まで締め上げた。

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