終戦の日について考えてみた。千島列島東端の占守島(しゅむしゅとう)の戦い

日本の終戦はいつですか?

8月15日とは限りません。
米国は「VJ(Victory Japan)デー(対日戦勝記念日)」9月2日。中国は「日本の侵略に対する中国人民の抗戦勝利日」9月3日。ロシアは「対日戦勝記念日」9月3日です。

北方の占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)は、太平洋戦争終戦後(もしくは終戦準備・戦闘停止 期間中)の1945年(昭和20年)8月18日 – 21日に、千島列島東端の占守島で行われたソ連労農赤軍と大日本帝国陸軍との間の戦闘です。

この戦いが無ければ、戦後日本は南北に分断されていたかもわかりません。
命をかけ、家族と離れ、必死に戦った戦士を我々は、決して忘れてはいけないです。
本当に尊重されるべきです。
今、日本が分割統治されずにあるのは、彼らのおかげなのですから。戦争が良い、悪いという議論とは全く関係ないです。

もっと正しい知識を

僕たちは、あまりにも自国の正しい戦争の歴史を知らな過ぎます。学生時代にもっと知りたかった。そのころの知識人と呼ばれる人々は、歴史の真実に向き合わないでイデオロギー論争にばかり熱中していた。
共産党宣言やマルクスの資本論をバイブルのようにあがめていた。机上の空論ばかりで、もっと歴史の真実に迫った本質的な議論をしていなかった。
当時は資料が少なく難しかったとは思うが、1995年、アメリカ政府が情報公開法によって「ヴェノナ(VENONA)文書」を公開したので、新しい戦争の史実が分かってきている。

「ヴェノナ文書」とは、1940年から1944年のソ連の工作員たちの交信記録。

当時は、資本家を根絶やしにすればみんな幸せになると、本気で信じてたんだろうな。そもそも労働価値説の「モノの値段はそこにかけた労働の対価で決まる」という前提が間違っている。そんな単純なものではない。
労働者が資本家から解放されて平等になるという論理もおかしい。結果は、労働者の代表(共産党の偉い人)が資本家に成り代わって好き放題やるだけだ。
そんなソ連が北海道を分割統治していたらと考えると、恐ろしくなりますね。

占守島の戦いの概要

ソ連は8月9日に日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦した。

昭和20年(1945)8月14日の御前会議で、ポツダム宣言の受諾が決定され、同宣言受諾に関する詔書が発せられることとなりました。「終戦の詔書」案は、8月14日の閣議にかけられ、「戦局日ニ非ニシテ」が「戦局必スシモ好轉セス」とされるなど数カ所の修正が行われたのちに、文言が確定しました。
この詔書は、翌15日正午、いわゆる「玉音放送」として国民に伝えられました。

ポツダム宣言受諾により太平洋戦争が停戦した後の8月18日未明、ソ連軍は占守島も奇襲攻撃し、ポツダム宣言受諾に伴い武装解除中であった日本軍守備隊と戦闘となった。

日本軍の状況

日本側は、陸軍第5方面軍(司令官:樋口季一郎中将)隷下の諸部隊が、対アメリカ戦を予想して占守島・幌筵島の要塞化を進めていた。1945年(昭和20年)になると本土決戦や北海道本島防衛のため兵力が引き抜かれたが、終戦時点でも第91師団(2個旅団基幹)を擁していた。また、これまで北方方面はほとんど戦闘がなかったため、食糧・弾薬の備蓄が比較的豊富であった。さらに、満州から転進した精鋭の戦車第11連隊も置かれていた。

海軍は千島方面特別根拠地隊を置いていたが、陸軍同様に主力を北海道へ移転して解隊してしまい、南部の片岡基地を中心に第51、第52警備隊などを配置している程度だった。

航空戦力は陸軍飛行戦隊と海軍航空隊を合わせても、わずか8機の旧型機が残っていただけであった。

戦闘は日本軍優勢に推移するものの、軍命により21日に日本軍が降伏して停戦が成立、23日に日本軍は武装解除された。捕虜となった日本兵はその後大勢が法的根拠無く拉致され、シベリアへ抑留された。

占守島の位置

千島列島のほぼ最北端にあり、北東は千島海峡(ロシア名「第1クリル海峡」)を挟んでカムチャツカ半島ロパトカ岬に面する。
南には幌筵海峡(ロシア名「第2クリル海峡」)を挟んで幌筵島がある。面積は230平方キロメートルで、海抜200メートルくらいの緩やかな丘陵が続き、沼地と草原である。オホーツク海と太平洋に囲まれ、夏季でも摂氏15度くらいで濃霧が覆い、冬季はマイナス15度の極寒の上に吹雪となる。

1945年2月のヤルタ会談で結ばれた秘密協定では、ソビエト連邦(ソ連)が日本との戦争に参戦すること、その場合は戦後、北緯50度線以南の樺太南部(南樺太)などをソ連に返還し、千島列島については引き渡すことが決められていた。
もっとも、8月15日にアメリカのトルーマン大統領が、ソ連のスターリン首相に送った日本軍の降伏受け入れ分担に関する通知では、千島列島についてソ連の分担地域とは記されていなかった。
そのため、ソ連側は千島列島及び北海道北東部(釧路 – 留萌を結んだ直線以北)をソ連担当地区とすることを求め、アメリカも17日付の回答で千島列島については同意した。

50度線

50度線(ごじゅうどせん)とは、北緯50度を通る緯線。本稿では特に、日露戦争後の1905年から1945年までの40年間の間、北緯50度線上にあって樺太を南北に分けていた日露(日ソ)の国境線について記述する。

太平洋戦争(大東亜戦争)末期から終戦直後にかけて、南樺太に侵攻したソビエト連邦が樺太(サハリン)全島を占領・実効支配した後、サンフランシスコ講和条約で日本が南樺太を放棄したことにより、日露両国の国境としては消滅した。ソ連が崩壊して以降は、ソ連を継承するロシア連邦が引き続きサハリン全島を実効支配している。

参考 戦前の日本地図

参考 世界の「終戦記念日」

われわれ日本人の一般常識では、先の戦争の終戦記念日は8月15日と決まっている。とくに2015年は戦後70周年ということで、安倍総理の談話や中国が対日戦勝利の軍事パレードを予定しており、ことさら「終戦の日」が強調される年となっている。

しかし、ロシア(旧ソ連)でも対日戦勝利は9月、アメリカでも9月となっている。中国が軍事パレードを予定しているのは9月3日中国はこの日を「日本の侵略に対する中国人民の抗戦勝利日」としている。これを決めたのが2014年2月に開催された全国人民代表者会議でのことで、まさに70周年を目前にして正式に決定されたものである。このように日本と敵対国であった周辺国をざっと見渡しても、終戦の日は実際には日本人の常識とは違っているのだ。

では、日本人が終戦の日と信じる8月15日とは何か。そもそもこの日は「終戦の日」なのか、「敗戦の日」なのか。あくまでも1945年8月15日は天皇が戦争後の日本の在り方を定めたポツダム宣言の受諾を日本国民と大日本帝国軍人に「玉音放送」という形で直接語り掛けた日であり、武器を置き、敵対行為をやめるように命じたもので、戦闘状態をいったん休止する「休戦宣言」をした日だといえる。

実際に、日本がポツダム宣言を受諾したのは8月14日であり、そのことは全世界に公表されていた。それを知らなかったのはごく一部を除く日本人だけだったといえよう。

事実、アメリカでは8月14日に日本が降伏することが報道されていた。その日にトルーマン大統領はポツダム宣言の内容を国民に説明し、日本がそれを受け入れたことを告げ、VJデー(対日戦勝記念日)は9月2日の降伏文書調印を見届けた上で布告するとしていたのである。

日本の降伏調印式は1945年9月2日、東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号で行われ、その状況はラジオの実況中継で全世界に流された。トルーマン大統領は、ラジオの実況中継後、全国民向けのラジオ放送で演説。その中で9月2日を正式にVJデーとし、第二次世界大戦を勝利で終えたことを宣言したのである。したがってアメリカの第二次世界大戦の終了は1945年9月2日ということになる。

参考 露が大戦終結日を変更(2020.4.25産経新聞より)

露が大戦終結日を変更 「対日戦勝利」の9月3日に

ロシアのプーチン大統領は24日、同国での第二次世界大戦の終結日を、ソ連時代に「対日戦勝記念日」としていた9月3日に変更する法案に署名した。終戦75年の今年、「対日戦での勝利」を強調し、北方領土の占拠を正当化する狙いがありそうだ。9月3日を「抗日戦争勝利記念日」とする中国と足並みをそろえる思惑も指摘されている。

ロシアはこれまで、日本が降伏文書に調印した9月2日を終戦の日としてきた。一方、旧ソ連時代には3日に戦勝祝賀行事が行われており、こうした経緯を重視する上下両院の議員らが終戦日の変更法案を提出していた。

ただ、9月3日は、露南部ベスランで2004年、児童ら300人以上が犠牲になった学校テロ事件の追悼日。国内では追悼と戦勝祝賀を重ねることへの批判も出ている。

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