今年(2018年)3月から中国の中学校で使用される歴史教科書から、中国社会を大混乱に陥れ、多くの犠牲者を出した「文化大革命」(1966~76年)の項目が削除されることが明らかになりました。教訓を忘れさせる行為として国内でも批判が上がり、出版社が釈明する事態に発展しました。旧版にあった「第7課 『文化大革命』の10年」との独立した項目が削除されていました。文革の記述は前の項目に吸収される形で残っているものの、新版では「動乱と災難」の見出しが消え、「人の世に順風満帆な事業はなく、世界の歴史は常に曲折の中で前進してきた」との文章が追加されたのです。
1968頃の文化大革命とは、僕たちにとってどのように捉えられていたのでしょうか。記憶を呼び戻してみました。
朝日新聞の影響でしょうか、文革は比較的肯定的に受け取られていたし「毛沢東語録」もよく読まれていたと思います。「毛沢東語録」の内容は退屈で、共産主義を完成させるには大変だなあとか思ったぐらいで、特に国家観に共鳴することはありませんでした。ただすごい理想に燃えているという感じはあったけれど、これは非常にエモーショナルな共感でしたね。
朝日新聞が当時、文革を高く評価したのは周知のことですが、文革開始直後からというわけではなかったらしいです。当初は文革批判あるいは文革を懐疑する記事も結構、多かったのだそうです。文革の始まった年の暮、朝日は社説で次のように書いています。
〈 中国が、民主主義を志向するわれわれと異なる道を歩んでいることは、
隣国として重大な関心をもたざるをえない。また、今後の中国の動向が、
大国主義的、膨張主義的色彩をもつのではないかという点については、特にそうである 。 〉
― 1966(昭和41)年12月27日付け ―
社説は、文革をとおして将来に向けた中国の「大国主義的、膨張主義的色彩」に懸念を示しています。2018年に入った今日、軍事力を背景にした尖閣諸島の領有権、南シナ海での海洋権益獲得行動は、社説の懸念どおりに的中、中華帝国の膨張主義が現実になったことを示しました。先を見通したお見事な社説だと思います。
一年後の社説は、これが同じ新聞のものだとは思えないほど、様変わりの変化でした。一転、文革を近代化を進めるための模索と位置づけ、遅れた他国にとっても参考になるといわんばかりに評価したのです。以降、記事も文革肯定に変わり、一気に中国に寄り添っていきました。
〈 文化大革命が社会主義理論に重大な問題を提出していることは明らかである。
この意味で文化大革命を、わが国政党にみられるような、
政策論争をともなわない派閥争い的な意味での権力闘争とみる考え方には、われわれは組しがたい 。・・・
中国がいま進めている文化大革命は、近代化をより進めるための模索といえよう。
いまだに近代化への道を捜しあぐねている国々に、一つの近代化方式を提起し挑んでいるともいえる。 〉
1967(昭和42)年8月11日付け社説
さらに、日中間の懸案だった国交回復が取りざたされるなか、1969(昭和44)年11月、佐藤・ニクソン会談で 沖縄返還を約束した日米共同声明 が発表されます。このとき同時に日本の自主防衛力の強化にも言及がありました。翌年に控えた日米安保条約の延長問題(70年安保)と、この「自主防衛力の強化」を念頭においてでしょう、周 恩 来首相は「沖縄の返還は全くのペテンだ」「日本軍国主義はすでに復活し、アジアの危険な侵略勢力になっている」 と断じ、佐藤 栄作 政権を攻撃します。
これに対し朝日新聞は、どんどん中国の主張に寄り添います。僕たちもあり得ないような日本軍国主義の復活を叫ぶのが、訳知りのインテリ層のような風潮がありました。
〈 われわれは、日本軍国主義がすでに復活したとまでは考えない。
だが「復活」の危険な情勢にあることは、・・・認めざるを得ない 〉
― 1970(昭和45)年4月20日付け社説 ―
また、安保条約が自動延長になった1970年6月23日付け社説 〈 「選択の70年代」 と安保条約 〉では、日本の加害を報道する社説を開催します。1年後の「中国の旅」報道でたっぷり日本の加害を追求する予告だったのかもしれません。
〈 「70年安保」で“被害意識”を強めているのは、中国をはじめとするアジアの国々であり、
日本国民には“加害者”としての感覚がきわめて希薄である 〉
1970年6月23日付け社説
日本の軍国主義復活反対、自主防衛力強化反対、さらには日米安保条約解消、佐藤政権不信任と、たてつづけに朝日新聞は中国の主張に沿った報道を展開しました。
そして上記の目標達成を容易にする手段の一つとして、日本軍の残虐行為糾弾が日程にのぼったのではないでしょうか。この計画が中国側の示唆、ないしはそそのかしに朝日が飛びついた結果だろうと思っています。日本の防衛力強化を阻むのに、また“加害者”としての自覚の足りない日本人を目覚めさせるために、日本軍を叩くのが手っ取り早いと考えたのに違いありません。 つまり朝日は、中国と共通の理解に立っていることをつたえるため、平たく言えば中国への迎合、手土産に日本軍断罪が使われたのだと思います。
そして、中国が綿密にお膳立をした上に取材が行われました。ですから、記事を書いた本多勝一自身が言うように「レールは敷かれているし、取材相手はこちらから探さなくてもむこうからそろえてくれる。だから問題は、短時間に相手からいかに大量に聞き出すか、しかも正確に聞き出すかと、そういう問題になる」という次第で、朝日新聞の半独占状態のなか、「中国の旅」連載が行われたのです。
結果は、日本人を「集団ヒステリー状態」 にさせるほどの大成功で、予想を上回る大反響だったと本多自身が書いています。中国もまた同じで、期待をはるかに超えた成果にほくそ笑んだに違いありません。
もちろん、中国がこの絶大な効果に味をしめないわけがありません。朝日をはじめとする日本のメディアと中国が、2人3脚で日本軍の残虐ぶりの糾弾に突き進み、やがて黄門様の葵の紋章入りの印籠のごとく、日本人が平伏する「歴史カード」 を中国は手に入れたのです。
中国は「強制連行された慰安婦と南京大虐殺は、国際社会が認める歴史的事実であり、確実な証拠が多くある」と主張するが、証拠も確かのものでなく明らかに捏造の要素が多い。この騒ぎの間に文化大革命の悲劇のことを無きものにしようというのだろうか。これこそ歴史修正主義国家の見本でしょう。
文化大革命
中国で1966年から毛沢東死去の76年まで続いた政治運動。毛沢東が権力奪還を狙って発動したとされる。「紅衛兵」と呼ばれる若者を中心とした大衆動員により、政治指導者や知識人、宗教者らが攻撃を受け、文化遺産が破壊された。政治迫害などの被害者は「1億人」とも言われる。中国共産党は81年、文革を全面否定する「歴史決議」を採択したが、今なおタブー視されている。
中国の旅
「中国の旅」は昭和46年8月から12月まで朝日新聞に連載された。中国人が戦争中の日本軍を語る形を取ったルポルタージュで、毎回、残虐で非人道的な日本軍が語られた。これほど残虐で猟奇的なことを新聞が掲載してよいのかと感じるほどだったから、その残虐さと猟奇さに度肝を抜かれた日本人はいただろう。
しかし、語られている日本軍の行為は日本人の感覚からは考えられないもので、常識的な日本人なら躊躇なく疑うものだ。もし日本軍の実情を知っている人なら言下に打ち消すだろうし、日本の歴史に照らしあわせれば、これも直ちに否定できる。「記事に対するごうごうたる非難の投書が東京本社に殺到した」(「朝日新聞社史」)というように、朝日新聞の読者ですら拒否したのである。
社内からも批判の声が上がった。「中国の旅」は4部に分けて連載され、残虐で非人道的な話の圧巻はそのうちの「南京事件」だが、当時従軍した記者たちが取材した南京と、「中国の旅」に書かれている南京とはまったく違っていたからである。
こんなことから、連載をまともに受け取る日本人などいないだろうと考えられたが、実際は多くの日本人が受け入れた。連載から半年後に単行本となり、やがて学校の副読本として使われだし、しかも文部省はそれに反対しなかった。それから十数年して南京に虐殺記念館が建てられると、献花する政治家が次々と現れた。同じように、国交回復のとき話題にもならなかった南京事件を中華人民共和国が言いだすと、外務省は反論することもなく認めた。なぜ受け入れたのですかと彼らに問えば、朝日新聞に掲載されたからと答えるだろう。常識から判断できるのにしないで朝日新聞を信ずる。なぜそうするか不思議なのだが、それほど朝日新聞が信じられていたことになる。
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