アメリカ旅行

4月の末になり、参加していたプログラムの冬期セメスターも終了に近ずいたのでそれまで米国のおもに東海海岸のみで活動していたこともあり米国一周する旅行を短期間ではあったが計画をした。時間がゆるせばバスを利用して多くの都市を見学して廻りたかったが約3週間あまりしか日程がとれな  かったため、中・西部の都市を主に飛行機を利用して訪れた。ヒューストン、ラスベガス、ロスアンジェルス、サンフランシスコ、デンバーそしてカンサスシテーなどの比較的交通の便の良かった大都市を選んだ。はじめからアメリカの都市はどこでも似たりよったりだと思っていたのでむしろ観光よりも、  その土地で出合うアメリカ人がどんなであるかが楽しみだった。そのためにインターナショナル・ステューデントサービス(ISS)* に依頼してホスト・ファミリーの紹介をたのみ、各都市の家庭に滞在しながら旅行する形式にした。この方がホテル食事代が無料になるし、アメリカをより深く理解す  る上でも貴重な体験となり、私にとっては非常に都合のよいプログラムであった。しかしISSの主旨はあくまでも国際親善のため各国留学生と一般家庭との理解を深めるのを目的にしており単にホテル代りに利用するのはつつしむべきであろう。次ページの地図に旅程ょ示した。あるアメリカ人による  とアメリカの都市で観光ができるのはニューヨーク,サンフランシスコそれにニューオリンズの3都市だけであとは、だいたい似たりよったりだそうだ。地方の小さな都市でも大都市と同じ物が買え同じ物を食べ文化の程度に変わはない。地方に住んでいても田舎に埋もれるなどという日本的な悲壮感な  ど全くない。このことは同時に地方色の希薄さにもなり、ホテルやレストランの食事など全国的に同じ料理のメニューだ。また住んでいるアメリカ人も、例によって移動の好きな国民性もあるらしく各地にもと住んでいた経験のある人がほとんどである。特に南部地方は最近になってより人気が高まり、住  民の南下の傾向は依然としてつづいたいる。最初に訪れたヒューストン(テキサス州)のレッド家もペンシルバニアから5年前に移動して来たといっていた。彼らの住むヒューストン郊外のキングウッドは新興の住宅地で彼らのように北から移動して来た若い夫婦や家族出どんどん大きくなりつつある。  ヒューストンはテキサスでも東にあたり、メキシコ湾に面しており夏はものすごく湿度が高く彼らは熱い日には毎日3回シャワーをあびなければならな といっていた。私とほぼ同年代の美人の奥さんジュディは外国人留学生を引き受けるくらいなのでものすごい活動家タイプで子供(じぇぃすん6才)  の世話とかけもちでいろいろな地域活動に参加していた。少ない滞在だったが私も毎日それにつき合わされ街の見学どころではなかった。砂漠のあるテキサスはもっと西にあるがそれは私の想像していた砂ではなくゴツゴツした岩とどろと小さな植物がある広大な平原であった。そこでは日本で見られない未知への可能性が大きく秘められているような感じがあり、これだけでもテキサスに住む価値はあると思った。また南部に住む人々はアメリカの中でもさらに人が良く、親切であるようだ。それに南部なまりの英語でゆっくりと話し、ニューヨークのブルックリンとは全く対称的である。ヒューストン最後の日にジェィスンの通っている小学校に行ってクラスで日本の話をした。ここで気がついたのはこのような新興の住宅地の学校には黒人の生徒が全くいないことだ。郊外は白人社会ののこされたとりでのような感がある。そのあと、ジュディとジェィスンがホンダ・アコードの愛車で空港まで見送りに来てくれ、ラスベガス行きのDC-10に乗った。このときに時計をセント  ラルタイムから太平洋岸標準時間に合わせ、2時間遅らせる。アメリカ大陸内では4つの時間帯があり、西の太平洋岸からロッキー山脈の西側までか゜太平洋標準時間、そこからアメリカ大陸のほぼ中央の線までが山岳地方標準時間、そこからシカゴ、アパラチカ山脈の西側までが中央地方標準時間、そのさらに大西洋岸までが東部標準時間になっている。勿論、東の方が早いのでニューヨークの人々が昼食をとるころ、ロサンゼルスの人たちが会社に出勤を始めるということになる。ラスベガスで私を待っていてくれたのはジョンロスキィーだった。彼は30代前半のYMCAに勤めるサラリーマンだが結婚はしておらず北ラスベガスの住宅地に1人ですんでいた。1人暮しなので私も気をしかわずに彼の車を借りて近くわ見学したり、またそのとき開催されていたコンベンショナル・センターのNAB大会などに参加したりしていた。ジョンは一見ぶっきらぼうだが、まじめな顔そしてジョークをいいそのあとバカ笑いわする、よくあるタイプのアメリカ人だった。ラスベガスはアメリカのネエバァダ州の南端近く、砂漠の中に開けた賭博と娯楽の街という印象が強いが、ジョンによると住むのにも良いところだそうである。たしかにジョンにつれられてアリゾナとの州境いにあるフーバーダム方面、北ラスベガスなど美しく開放的な集落がみられた。歓楽街のことは  有名なのでここで書くまでのこともないと思うがまさに賭博の街でレストラン,空港いたるところにストレッチマシーンがある。ジョンの友人というあるホテルの賭博場でブラックジャックのディラーをやっている女性にやり方を習い一緒に出かけたが、あっという間にお金がなくなってしまった。よほど多くの資金がないと長い間は楽しめないだろう。砂漠を抜ける道を通ってみたかったのでロサンゼルスはバスを使った。グレィハウンドの長距離バスは有色人種が多くなり飛行機の乗客とは全ムードが異る。自然、長時間乗るのでとなりの席の人と話が始まる。そのときとなりの席にとた50代の婦人は、ロサンゼルスにいる娘夫婦が離婚をするので話し合いに行くそうで日本でも離婚率は多いかと聞いていた。アメリカでこの種の話はほんとうによく聞かされる。事実離婚率は相当な比率らしい。アメリカという国をどう思うかとも聞かれ、何しろ可能性の大きい若い国だと云ったらアメリカ人にしてはめずらしく否定的で貧窮にあえぐ白人,孤独に悩む老人,人種間のテンション,問題が多すぎる国だと彼女は云っていた。通常、アメリカ人はこの国の自由とか、大きさとか世界一のことを自慢化に喋るのだが。
コサンゼルス郊外のエルモンテでバスを降りると次のホストであるアーネスト・ウィルアムズ氏が出向かえに来てくれ、パサディナの彼のアパートに向かった。彼は医師で1人暮しだがガールフレンドのパムがいつも一緒である。パムは別の家に彼女の子供(フレッド16才)と2人で住んでいるが2人は夫婦同様のつき合いをしていし将来も結婚はしないといっている。彼は、哲学的で少しシニカルなところがあり話しているとなかなか含蓄のあることわ言う。滞在も長かったのでよく夜中まで話し合った。アーニーが仕事でいないときに、ロスのダウンタウン,またCTLのムーア氏から紹介してもら たCBSのスタジオの見学などもした。何とも大きな都市で移動するのに時間がかかる。例えばパサディナとCBSのあるハリウッド方面は市の中心をはさみ反対のカウンティにある。バスの連絡は時刻表をたよりにうまく使うとスムーズに移動できるがそれにしても住民が1人に1台強も車を持っている車社会の代表のようなロサンゼルスでは自動車なしの生活は不便なものである。ロサンゼルスからサンフランシスコまでのバスの中からはときどきなつかしい太平洋が見える。しかし10時間もかかるバスには多少飽きが来る。西海岸まで来ると日本人らしき人たちの姿を見ることが多くなる。東側方を旅行しているときは、東洋人がめずらしがられることも田舎ではあり、フロリダのバスの中では、日本人だということだけで若い連中が“ハイ”と  声をかけて来た。目を輝かせて「へーえ旅行しているの」「1人で?」「何処に行ったの?」という。今でこそ大都会には歪み疲れた人々がひしめいて  いるが、こうした天真爛漫な明るさこそ今でも流れているアメリカ人たちの本質であろう。このバス(ロス-シスコ)の中では母親と2人でサリナスにいる祖母を訪れるというステェファニーと知り合った。彼女はまだ小学生の女の子だがものすごく社交的でよく口がまわる。いままで東海岸ですごした私の体験談を目を輝かして聞いてくれた。彼女の父親は、アル中でなくなったとかで今後サリナスで暮らすということだ。調子に乗るとだんだん声が大きくなって来て母親にとがめられる。サリナスで降りるときになっ、そこはまだ子供で一緒におじいさんのところに来ないかとさそってくれた。予定がなければ本当に行きたいくらいだった。そして1時間ほどたつとサンフランシスコのベイブリッジがみえて来た。シスコで滞在していたリリアンソール夫妻は裕福なユダヤ人でご主人のテッドがベンツSLで向かえに来てくれ  た。彼はスタンフォード大学を出て広告会社に勤めており何年か前日本を旅行したことがあるそうだ。大変な旅行家でヨーロッパ,中東はもちろん南米,アフリカ,アジアを訪れている。次はモンゴルに旅行するのを計画しているという。サンフランシスコは、美しい町だがやたら観光客が目だち住むには  あまり魅力的な街には思えなかった。コロラドのテンバーの町は、文字通り隈なく見学した。というのはホステスのマリーが人に案内そして歩くのが好きらしく休む間もなく、次から次に名所,旧跡を見せて廻る。自分の仕事があるときは、息子や友人にたのんでコロラド大学や彼女の友人の経営するランチにつれていってくれた。私の帰国後彼女の息子が来日し最初に私が日本で会ったアメリカ陣(アメリカで知り合った)であった。外国の地で知り合った人に日本で再会できるのは何とも言いがたい感激がある。カンサス・シティでは、ホストファミリーとの連絡がとれずISSの支部に電話をするとカンサスではISSのVISITサービス地区から抜けたそうでYMCAを宿として紹介してくれた。そのときシスコのミセス・リリアンソールから「カンサスでこまったことがあったら私の友人に連絡しなさい」といわれたことを思いだし電話すると心よく向かえに来てくれて次の日YMCAに向かえに来てくれ、その後2泊させてもらった。カンサス・シティを最後に再びニューヨークに戻った。そのときやはりニューヨークは良いと思った。カリフォルニアのように人々はフレンドリーではなく一見ギスギスしているように見えるが、何となく街に親しみがある。ロサンゼルスで信号を無視して渡ったらポリスに注意されたがニューヨークでは相変わらず人々は信号で道路を横ぎりセカセカと歩いている。住めば都の例えどうり東側に長くいたせいもあるのだろうと思うが自分の家に帰ったような気がした。

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