School for International Training(以下SIT)のあるバーモント州はカナダ国境に接するニューイングランド6州の一つで、山と渓谷の美しい所で、景色は比較的日本の山岳地方に似かよったところがある。道路も古く狭い道が多くアメリカといっても、西部や南部の広大な風景とはかけはなれている。バーモントという名の語源は仏語で緑の山という意味だそうで自動車のプレートナンバーにも州のニックネームのグリーンマウンテンと記入してあり緑色をしている。最初の留学地であったSITは30年来各国との交換留学生の世話をしてきた半官半民の機関である国際生活体験委員会が近年ふえていく外国人留学生のために集中的に英語を教えたり、アメリカ人英語教師(外国人のための)の育成、国際的な仕事のためのプログラムなどを行っている。
さて、ニューヨークのマンハッタンで一泊した。後ラガーデア空港に向かいそこから小さなプロペラ機で北東に約1時間飛ぶとニューハンプシャー州のキーン空港に着く。そこから車で学校のキャンパスに着いてみるとこれがブラテルボローという丘の上にあり、広々とした芝生と森の続くゴルフコースのような敷地にクラスルームや食堂、寮などが点々としているという感じだった。このような風景はニューイングランド地方溶く有の美しさで人間をのんびりとした気分にさせてくれる。登録をすませて寮に入るとすでに各国からの留学生が滞在しておりどの国の学生もとてもフレンドリーで合うと必ずニコニコして“Hi!”とあいさつをする。そしてどこから来たか、何のプロジェクトに参加しているのかなどという話になる。各寮は小さくまとまっており約30人ぐらいの木造の建物が数十あり、500人ぐらいは収容できるようであった。また食堂のあるキャレッジ・ハウスの二階は、学生のたまり場になっておりテレビ室、卓球場、Type室、音楽の聞ける居間、球つき場などがあり多くは寮にもどるよりもこの辺をうろうろしている。二階の居間は、とても良いムードで各国留学生やアメリカ人学生がたむろしているので、いろいろな話し相手がみつかりかっこうの社交場であった。
私の参加した英語学習のプログラムは、全体で約200名ぐらい、国別での構成は、スイスが一番多く次にラテンアメリカ系アラブ系とつづき日本人は10人前後で少ない方だった。クラスは平均10人ぐらいづつで私のクラスは、スイス人5人、イタリア1人、ラテンアメリカから2人、日本人は私1人で9人構成。最初はスイス人たちの英語の上手なのにはおどろきで、まるでいまさら何で英語を習いに来ているのかわからないくらいネィティブに近い話し方をしている。しかしおどろいてばかりはいられないので、私もスピードを上げて喋るようにした。反対の意見もあるが私が思うには、アメリカで生活していく上で英語の正確さも大事だが速くはなすことも重要である。そうしていくうちに完全に物事を英語で考える習慣ができて行くからである。
クラスの授業と学生たち
授業の方は、内容をこらしておもしろく進めている努力を学校はしているのだがやはり単調になりがちである。変化をつけるために外に出て芝生の上で勉強したり、ニューヨークタイムズの記事を題材にしてディスカッションしたりする。フランス語系のスイス人は英語の語りが豊富でふだんあまり聞かれない妙な言葉を知っている。スペイン語系の南米人も同じで難解な単語ほどかれらの母国語に近いらしく通じることが多い。そのかわり我々には易しい単語を知らなかったりする。後にヨーロッパを旅行してみて気が付いたが、北欧、ドイツ、スイスなどの人々は、多くの人がとてもきれいな英語を使い、彼らの外国語教育に対する取り組み方が母国語の異りもさることながら島国の日本とはまるで違うことを感じた。
8月に入り、あまり暑いとき(100゜F近く)には池のそばに行って授業をしたりした。すると突然1人が服を着たまま池に飛び込んだりする(こういうことをするのはラテン系の学生と決まっている)暑すぎるから授業をやめてドライブに行こうと先生のスーザンに提案すると彼女がトラックを貸りて来てみんなを乗せ近くのリゾートエリアに出かける。自由気ままな何とも楽しいクラスだった。このムードは全く都会からかけはなれている山の中で全員寮生活を夏にしているのだから解放的になるのは当然かもしれない。しかし、中南米の学生たちはなんであんなに明るいのだろうか。彼らは明日のこと何年か先のことをあまり考えているとは思えない民族だが、日本人のコセコセした感じはカケラも持ち合わせていない。単純そうだが感受性も豊かで日本人とは気が合うのかすぐ友達になれる。しかし、やや感情的に走りやすい傾向があり、極端に行動することがある。ユーモアと受けとればそれはそれでおもしろいが毎日は付き合い切れない。逆にヨーロッパ系の学生は理性的であるが、それが冷たさに受けとれることもある。結局私にとってアメリカ人が話しもよく通じるし、考え方も良く理解でき、適当に気やすいので一番付き合いやすい人種だった。また中東アラブ系の連中は、全く何を考えているのか解らない私にとっては異質な存在で話がかみ合わない場合が多い。 ジョークも悪質なものが多くすぐわかるようなウソをつく。気のいい連中も多いがオイルダラーによる金持が多く彼らはやや横柄なところがあるのであまりいい感情を持てなかったのかも知れない。一方アフリカ系(スーダン・ザィールなど)からの学生(といっても30代~40代が多いが)はは気さくで何でも話し合えたが、腹の底で何を考えているのかわからない節もあった。以上かってなことを書いたがこれらは私の私感である。しかし、これだけの多様な資質を持っている民族が地球上のそれぞれの地域に住んでいるのだから表面上はともかくお互い心から理解し合うのはたいへんな努力が必要だと思った。クラスの授業の他に他界各地の若者たちとディスカッションをしたり、行動を共にする中で直に接した経験は、非常に貴重なものだと思う。
課外活動
課外活動といっても全員でまとまって行動することはあまりなく好きな者が集って自由に企画して参加するものが多い。例えば7月4日の独立記念日の日に学校として町のパレードに参加したり、地域の人たちが学校に来てじっくり話し合うティーチイン、各国の学生主催によるお国じまん大会のようなものもある。また授業は午後の3時で終るので、その後は池で泳ぐ者、バスケットボール、テニス、ゴルフいろいろスポーツをする者、また町にバスで出かけて買いものをしたりせんたくをしたりする者もいる。この学校は大規模な大学と異りキャンパスでは何も購入することができず、自然町まで出かけることが多くなる。バスのない日にはヒッチハイクで行くのだが、ひろってもらえないときもあり、不便なのでニューハンプシャー州まで行って中古車を購入した。やはりアメリカは車社会、あるとないとではとくにキャンパスでは行動範囲が全く異って来る。町に出て気が付くことは、この町には黒人が全くいないことである。あのニューヨークの黒人パワーからすると想像しがたいくらいだ。従って町は熱気があるというよりも静かな田舎町という感じだするのであろう。
夕食のあとは、たいてい簡単なパーティを必ずだれかが開いているので出かけて行けば楽しいふんいきにひたれる。また勉強をしたい人はLLの教室に行き、テープをくり返し聞いて発音練習をしたりもできる。また有志で夜集り、アメリカ人学生を交えて授業のつづきをやっているグループもいた。ウィークディはいろいろの集まりも多いがたいていは11時頃には終るものが多い。しかし、週末になると食堂をディスコティックに変えて必ずダンスパーティとなる。ビールも自分たちで作って・1.00以下の会費で楽しめるので多くの学生でいっぱいになる。私もレコードの選曲やテープへのダビングなどパーティの準備をアメリカ人の学生たちと毎週やっていた。そしてそのテープ作りの段階から半分彼らはパーティ気分でビールを飲んだりポットを吸ったりして気分をもり上げている。キャンパスのダンスパーティがお開きになっても、まだものたりない人は丘を下った国道まで車で行って本物のディスコに行くことになり、あけ方近くまで遊んでいることが多い。総じてダンスのうまいのはラテンアメリカ系の連中でとくにブラジルの学生はカーニバルできたえられているのかどこでも音楽が聞こえれば体がとまらなくなるようだ。
フェアウェル・パーティ
プログラムが終りに近づき授業ものこり2~3日になると先生も生徒もなんとなく落ち着きがなくなり、雑談が多くなる。このプログラムでは英語の勉強の他に生徒どうしもお互いの国の間で交流をはかりたいと思っている学生が多く、学生間の友情はより親密なものがあった。南米の学生は例によって感情が激しく最後の授業のときに泣き出してしまいそれにつられてヨーロツパ系の連中もなみだぐんだりしていた。またメキシコの学生たちは夜中に数人で女子寮の窓の下にギターを持って行き国の歌などを歌いわかれを惜しんでいた。私も夜中に起こされてつき合わされたが、メキシコ人どうしこのプログラムで知り合い、国で結婚する学生もいた。
最後の日の夜にはお別れパーティが学校の主催であり、全員ドレスアツプして食事をしたりメッセージを述べ合ったり。そしてその後は例によってダンスパーティが始まり、夜中の3時頃までつづいた。たしかに約2ケ月半を一緒に勉強したり遊んだりした仲間だけになかなか分かれがたかった。このプログラムは学生間の一種独得な、連帯感のあるムードがあり他の大学のキャンパスではあじわえない世界の若者たちとの交流がある。アメリカ生活の第一歩としてのSITでのキャンパス生活は、いろいろな意味て私にとっては有意義であつたと思う。 また、ここで会った世界の学生たちは私が留学生活を通じて最も印象深く、親しく付き合えた連中だと思う。今でも当時のヒットソングを聞くとSITでのダンスパーティを思い出す。
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